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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
518/805

不在

 新学期が始まっても、吉野は戻ってこなかった。


 アレンは帰寮するなり寮監に呼びだされ、その事実を知らされた。後から飛鳥に電話して確認すると、「知らなかったの?」と、逆に驚かれた。

 吉野はすでにケンブリッジ大学生なのだそうだ。大学に進むかどうか、ギリギリまで迷っていたらしい。だが結局、数学科の一年生だ。「たぶん入学式には戻ってくるから」と飛鳥は言っていたけれど、自信はなさそうだった。


 大学生になるのに、吉野はいまだに砂漠にいるという。



 新学年開始に、荷物を抱えた寮生がぞくぞくと戻ってきている中庭を、人の流れとは逆向きの他学舎にある監督生執務室へとアレンは急いでいた。新年度監督生会議、ついで生徒会との初顔合わせの時刻が迫っていた。



 そんな人の流れをぬって「アレン!」と大声で呼び止めたのは、寮内で互いの帰寮を確認する暇もなかったクリス、それにフレデリックだ。肩を並べた三人は、互いの近況よりもなによりも、申しあわせたように吉野の不在を口にしていた。


「酷いよね! 一言も教えてくれないなんて!」

 クリスはぷっと頬を膨らませている。

「僕もさっき電話で確認したところ」

 アレンも苦笑いで応える。

「マイケル先輩にまで、騙されたよ――」

 珍しく、フレデリックまでもがぼやいている。


「サウードやイスハークまで、学校を辞めちゃうなんてね――」

「ええ!」


 アレンの口にした寝耳に水のニュースに、二人は揃って大声をあげた。彼らが今の時点で吉野と一緒にいるのは知っていた。


 でもまさか、自分たちになんの言葉もなく辞めるなんて――。


「どうして? あと一年なのに」

「サウードはAレベルも済ませているし、国際バカロレアも受験しているって。大学はアラブ圏で進むんじゃないかって、寮監がおっしゃっていた。それで監督生の穴埋めと、カレッジ寮生が三人も減ったことで他寮からの補充をどうするか候補者を選別するようにって」


 アレンはどこか感情の籠らない口調で、淡々と事実だけを告げた。


 新学期始まって早々の吉野の不在。加えて知らされたのは、サウードとイスハークの帰国だ。吉野がいないのは、なんとなく彼らにも予想がついていた。さすがに、まさかスキップされるとは思っていなかったけれど。彼がもう、この学校でする事がないのは感じていたのだ。


 自分のために予定を伸ばし、去年一年在学してくれていたのだ、と。そして自分との約束のためだけに、大学に籍を置いてくれたのだ、とアレンはそう思っている。


 けれど、まさかサウードまで――。


 入学したての頃は、活発で傲慢さを感じるほど率直な王子さまだと思っていたのに、いつの間にか思慮深く落ち着いて大人びていったサウード。いつも物静かで、鷹揚な雰囲気を湛えた神秘的な異国の皇太子。吉野の一番の親友――。彼だけが、吉野の傍に居続けることを許されたのだ。


「ヨシノにサウードまでいないなんて! ――アレン!」

 いきなり大声でクリスに呼びかけられ、アレンは、はっと物思いから呼び覚まされ、びくりと肩を震わせる。

「きみまで学校を辞めるなんて言いださないだろうね!」

 いたって真剣なくりくりとした瑠璃色の瞳を向けられ、アレンはにっこりと微笑み返す。

「まさか。ヨシノと約束したもの。僕もケンブリッジに進むって。それにまだAレベル試験が残ってるよ」

「うわ~! これからはヨシノなしで、試験もレポートも乗りきらなきゃいけないのか!」


 思わず苦笑するフレデリックの横で、クリスは大袈裟に嘆息する。その肩を、アレンは慰めるようにぽんと叩く。


「大丈夫。彼、心配性だから。その時期になればきっと、平気かって声をかけてくれるよ」

「そうかなぁ……」

 訝しげに唇を尖らせたクリスに、「だってね、」とアレンは顔を顰めるように鼻の頭に皺を寄せて、ふふっと笑ってみせた。


「僕の夏期休暇中の課題レポートがね、いつのまにか赤で添削されていて、おまけに参考文献のリンクまで貼りつけてあったんだ」

「それって?」

 首を傾げるクリスに代わって、フレデリックがアレンに訊ねる。

「ヨシノ、きみのパソコンをハッキングしているの?」

「そうみたいだね」

「うわぁ……、パソコンに日記なんて残せないな」


 これからはインターネットを切ってから書かなくちゃ、と今まで自分が書いてパソコンに保存しているデータを思い起こしなからぼやいたフレデリック。クリスも同じことを連想しているのか、目を白黒させている。


「だから僕は、今まで紙に書いていた日記をパソコンに変えたんだ。毎日の出来事、学校の様子、皆の様子、彼に共有してもらえるもの」

「返事は? 赤で添削してくれる? 綴りを間違っているとか――」

 心配そうに訊いたフレデリックに、アレンは首を横に振る。

「さすがに日記に添削はないよ。でも、ちゃんと見てくれてる。サラの作ってくれたセキュリティソフトに足跡が残っているもの」


「ヨシノ、過保護だ! 心配性だよ! そんなに気になるなら傍にいてくれればいいのに!」

 クリスは今度はいーっと歯を剥いて怒っている。

「僕は、彼のこのやり方が嬉しいな」

 アレンは、ふふっと相変わらず微笑んでいる。

「彼は好きなことをしていて、それでも僕のことも忘れないでくれている。ほっとするんだ」


 追いつけない背中を追いかけて走るのは、もうやめたのだ。

 時々振り返って、待ってくれているきみに気がついたから。

 僕は安心して、自分のペースで歩いていける。きみの後を追って。


 それでも、いまだ大きな枝ぶりの良い樹を見かけるたびに、きみの姿を探してしまうけれど――。



 秋晴れの空に目をやり、アレンは遠い異国に想いを馳せていた。それは、クリスもフレデリックもきっと同じ。それぞれが、それぞれの想いを抱えて――。







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