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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
515/805

  傷8

「お帰り、吉野」

 玄関先でそれだけ言って、感慨深そうにまじまじと見つめている飛鳥の頭をぽんと叩いて、吉野は首を傾げてにっと笑った。

「ただいま」

「お前、でかくなったよなぁ」

「飛鳥が小さいままなんだよ。ちゃんと食ってんのか?」などと軽愚痴を叩き、吉野は廊下に荷物を放りだしたままキッチンに向かう。


「メアリー、今日の夕飯は俺が作る。日本食が食いたいんだ」

「はいはい、かまいませんよ」


 吉野が久しぶりに帰ってくるとなると、きっとそう言うだろうと、メアリーは当に予測して笑って話していたのだ。ほらね、と飛鳥と視線を交えて目配せしている。


「人数は?」

「皆さん、今日はお揃いだって聞いていますよ」

「アレンは?」


 一緒じゃないんだ、と飛鳥が吉野を見やると、弟はもうお湯を沸かしたり、持って帰ってきた袋から野菜を取りだしたりと、きびきびと動き回っている。帰ってきたばかりだというのに!


「あいつはロンドンに寄るから遅くなるってさ。でも、飯には間にあうように帰る、って言ってたよ」




「今日のご飯は何?」


 広い作業テーブルの端っこに、調理の邪魔にならないように椅子をずらせて座り、飛鳥は淹れてもらったコーヒーをのんびりと味わっている。


「学校で育てた茄子で煮浸し。胡瓜の酢の物。トマトサラダ。飛鳥、ほかに何か食いたいものあるか?」

「肉じゃがとだし巻き卵かな」

「あと、味噌汁とすまし汁どっちがいい?」

「すまし汁かなぁ、暑いし」

「暑い? 家から出ないくせに」

「サラと一緒に、毎日、薔薇の世話を手伝ってるんだよ。ほら、焼けただろ? お前ほどじゃないけれどさ」

 飛鳥は折りあげている袖を、さらに捲くりあげて見せた。吉野は包丁を手にしていた手を止めて、くすりと笑った。

「なんとなくな。まぁ、確かに前より健康的にはなったよ」


 薬の後遺症も癒えて、この一年の飛鳥はすっかり落ち着いている。大学も優秀な成績で卒業した。本来のアーカシャーHDの仕事と、吉野の依頼した温室ガラスの設計で忙殺され、今年はメイボールどころではなかったが――。精神的にもずっと余裕がみえる飛鳥を眺めて、吉野は嬉しそうに目を細めている。


「ほら、肉じゃが食いたいなら、じゃが芋の皮剥きくらい手伝えよ」



「アスカ! どこ?」

 サラが呼んでいる。


「こっちだよ。キッチン」

 飛鳥の返事のすぐ後にサラの顔が覗く。

「なに?」

「これ」

 差しだされた書類に、飛鳥はちらと目をやった。

「サラ、悪いけどこれを読む間、じゃが芋の皮剥き、代わってくれる?」

 飛鳥は立ちあがって、自分が座っていた椅子を彼女に譲る。視線はもう書類の上を走っている。サラはちょこんと椅子に腰掛け、ピーラーを手に取った。




「ヨシノ、お帰り!」


 デヴィッドも、帰ってくるなりまずキッチンに顔をだした。

「今日のご飯は何? 僕のリクエストはぁ、」

「だし巻き玉子だろ? もうメニューに入ってるよ」

「それから?」

「肉じゃが」

「人参の飾り切りしてあげよっか?」

「――まぁ、助かる」


 以前アルバートと一緒にデヴィッドが日本で作ってくれた、薔薇の形の人参が入っている肉じゃがを思いだし、吉野は飛鳥とちらと顔を見合わせて苦笑いを漏らしている。





「遅くなってごめんなさい。ヨシノ、僕に手伝えることはあるかな?」


 キッチンに集まっている皆を見て、アレンは慌てて上着を脱いで袖を捲る。吉野が作る日は、アレンも手伝うのが常なのだ。





「ああ、いい匂いがしているね。お帰り、ヨシノ」

「もうすぐ食べられるの?」


 ヘンリーとアーネストも帰ってきた。


「もう、できるよ。ダイニングで待ってて」




 久しぶりの皆が揃っての食卓だ。

 この長い夏期休暇中、吉野はまた、明日にもサウードの国へ旅立つ。

 次はいつになるか判らない、しばらくは食べられなくなる吉野の手料理を、皆、思う存分味わった。






 翌日、ヒースロー空港の搭乗ゲート前で、アレンはふと思いだしたように吉野に微笑みかけた。

「僕たちが初めて出逢ったのはね、ここなんだよ」

 え? と吉野は怪訝な顔をしている。自分の記憶に残らない事なんてあるのか、とでもいうふうに。

「といっても、きみは知らないけれどね」

 アレンは悪戯っぽく、ふふっと笑った。



 エンジントラブルだったか、天候のせいだったか、理由はもうアレン本人にも思いだせない。とにかく自分の乗った飛行機の到着が遅れたのだ。深夜になり明かりの落ちた暗いロビーで彼の兄の姿を見かけた時、アレンは泣きだしそうに嬉しかった。

 けれど彼は、心細げに佇んでいた弟に気づくことなく通りすぎた。そして、彼の弟が見たこともない子の前で立ち止まり、微笑みかけていたのだ。



「あの日、きみは僕にとって特別な存在になったんだ。入寮の日にきみに再会して、すぐにあの時の子だって解ったよ。ヨシノ、ごめん。カレッジ・ホールの入寮儀式の時、きみの前で僕は耐えられないほど惨めだったんだ。思い返すたびに赤面してしまうほど、酷い態度を取ってしまったね」

「――もう何年も前のことじゃないか」

 口籠りながら呟いた吉野に、アレンは今にも崩れそうな口許を強く引きあげて笑みを作った。

「謝っておきたかったんだ。それから、ありがとう、ヨシノ。あんな僕をずっと見守ってくれて」

「あんな、なんて言うなよ」

「――帰ってくるよね?」

 アレンは伏せていた瞼をくっと持ちあげる。

「当たり前だろ」

 吉野はいつものようににっと笑った。鼻の頭に皺をよせて。

「来なかったら――、僕はきっと、きみを追いかけていくよ」

 アレンの声は、徐々に掠れて囁くようだった。

「馬鹿なこと言ってるよ」

 吉野はそんな彼を目を細めて笑って見つめていた。



「じゃあ、もう行くよ」

 人混みに紛れていくその背中に、これまで感じたことがないほど胸が締めつけられ、アレンは堪らず声をあげる。

「ヨシノ!」

 縋りつく悲鳴のようなその声に、吉野はもう一度振り返る。そして普段と変わりなくにっと笑って、軽く手を振った。





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