傷6
「なんとか間に合ったかな……」
キャンバスを前にして、アレンはほっとしたように吐息をついた。創立祭まであと三日という、ぎりぎりでの仕上がりだ。
ちらりと視線を向けた窓外は、まだ青みを残す空が茜色に染まり始めている。慌てて道具を片づけながら、時計を見る。
急がないと、また吉野に怒られる――。
このところ、絵の追い込みにコンサートの練習にと、帰寮が遅くなることが多かった。いつもは誰かが迎えにきてくれているけれど、さすがに創立祭間近となると皆忙しいのだ。今日はまだ誰も来ていない。
教室の内部にまで侵入し赤く染めあげていく逢魔が時に、アレンは落ちつかないものを感じて、そそくさと帰り支度を整える。だが彼が教室をでる頃には、あたりはすっかり黄昏ていた。
「遅いな」
日はすっかり落ちきって、談話室の窓から漏れる灯りが鈍く芝生を照らしている。その中庭を眺めていた吉野が、唐突に呟いた。
「遅いね」
フレデリックも鏡のように室内を映す窓ガラスに顔を寄せ、玄関先に人影が近づいてきていないかを不安げに確かめる。
「電話は?」
「かけてみた。あいつ、また部屋に置きっ放しだ」
エリオット校では、校内での携帯電話の所持は禁止されている。だが、連絡事項の多い監督生や、生徒会役員には許可されているのだ。それなのに朝に弱いアレンは、頻繁に所持しておく事を忘れる。日常は、ほぼフレデリックやクリスと一緒にいるので、特に必要ない、という甘えもあるのだろう。
「ヨシノ、」
喋りかけたフレデリックを、吉野は手で遮った。聞き取れないほどの小声で喋っている。TSでの通話中だと合点して、フレデリックは黙って様子を伺う。しばらくすると顔を上げた吉野は、顎をしゃくって外をさした。
「行くぞ」
なんの説明もないまま、フレデリックは吉野の後に従っている。訊ねようにも、吉野はむすっと黙ったままでいるのだ。だが、とくに急いでいる様子でもない。しばらく歩いて、ふっとその緊張が緩んだ気がして、フレデリックはようやく彼に声をかけた。
「ヨシノ、」
「ん?」
「アレンは?」
「ああ、」
吉野はのんびりと返事をした。振り返り、ひょいっと肩をすくめる。
「まぁ、べつになんの心配もないんだけれどさぁ、面倒臭いんだよ、いろいろとな」
大きくため息をついた後、吉野は夜間は閉じられているフェローガーデンに続く黒い鉄柵を軽々とよじのぼる。
「近道だよ。無理なら向こうをまわってこいよ。あいつ、音楽棟にいるからさ」
「行けるよ! それくらい」
フレデリックは必死の思いで鉄柵を掴み、すがりつくようにして柵を超える。ようやく地面に飛びおりたとき、足の裏に感じた衝撃に叩きだされたように、木から降りられなくなって吉野に助けてもらった昔のことが脳裏に浮かんだ。
友達じゃない、とあのときそう言った彼が、今もこうして自分を待ってくれている。フレデリックは、そのことが無性に嬉しかった。
小径をぬけ、川沿いの外灯に照らされて暗闇に浮かびあがる満開の薔薇園を通りすぎる。
「夜の薔薇園ってのも綺麗なもんだな。帰り道、あいつも連れてきてやろうな」
振りかえって笑顔を見せる吉野といると、まるで自分たちが散歩にでも来ているような錯覚に陥る。この行程の目的を忘れたわけではないのだが、どこか浮きたつような想いが抑えられないフレデリックだった。
だが、すでに閉じられているはずの音楽棟の重厚な扉が開いているのを見たときには、フレデリックは瞬時に緊張に顔を強ばらせていた。軋む扉を押し開き、足を踏みいれる。通路を進んで中庭にでる。
建物の陰で、この時間では考えられない、ざわざわとした気配が蠢いている。
「フィリップ!」
不穏な空気を打ち破る吉野の声が響く。人影が蠢いている。
外灯の下にまず現れたのは、アレンだ。そして、フィリップ・ド・パルデュがいつもの気取った様子で足取りも軽くその背後につき従う。
「怪我させていないだろうな?」
「失敬な。僕がそんなヘマをする訳がないでしょう!」
フィリップがつんと応えると、吉野は笑って、「こいつのことじゃないよ。穏便に済ませたいんだ」と建物の陰に集まっている一団へと足を進めた。
「平気?」
フレデリックはアレンの顔を見るなり駆け寄って、心配そうに訊ねている。アレンは苦笑しながら頷く。
「ルベリーニの契約の意味を初めて体現してきたよ」
音楽棟で創立祭のコンサートについて緊急のミーティングがある、とアレンはここまで連れてこられたのだ。建物には入らず角を曲がったことで、ここが例の曰くある場所で、自分は騙されたことに気がついた。
進級してから合気道を始めたとはいえ、付け焼刃の武道でこの人数を相手に闘えるとは思えない。アレンはすでに諦めている自分を自覚しながら、それでも、どうにか切りぬけられないか、と必死な想いで思案していた。助かりたいというよりも、吉野が助けてくれる、という沁みのような願いをかき消したかったのだ。
そんな彼に、取り囲む一団からの手が伸びてきた時――、
「ホント、凶暴だよなぁ、お前は!」
吉野の呆れ声で我に返って、アレンが振りかえる。フィリップと向かいあい、吉野は大仰にため息をついている。
「骨の二、三本、折ってんだろ、手加減しろって言ったのに。ほら、さっさと医療棟に運んでやれよ」
「手加減なんてできる訳がないでしょう! この非常事態に! あなたの方こそ、事の重大さを解っていらっしゃらない!」と、フィリップの方も負けじと居丈高な態度で言い返している。
「こいつが驚くだろ」
いきなり吉野に指差されて、アレンはびくりと顔を跳ねあげ、首を横に振った。
「平気。助かったよ。ありがとう。――あ、でも驚いた。きみがこんなに強いなんて。それに、きみの仲間の人たちも――」
「こいつはルベリーニ一の武闘派なんだよ」
吉野はフィリップを顎で指して、にっと笑った。
その帰り道で――。
「解っただろう? あいつと上手くやっていくのが次年度の課題だ。まぁ、今日のことで、そうそう仕掛けてくる奴もいないだろうがな」
なんとも言えない様子で自分を見つめているアレンを、吉野は、「もう、好き嫌いで人を選ぶな。あいつは役に立つ奴なんだよ」と淡々とした調子で諭していた。
そして「あいつ、フィリップのフランス分家はな、代々ルベリーニの軍隊なんだ。――おい、フレッド、」とそれだけ言い捨てると、もう今の出来事の後始末についてフレデリックと相談し始めた。
いつまでも守られるばかりで、何もできない役立たず。情けない――。
アレンは深く恥じ入りながら、真剣な会話に没頭している二人の傍らを歩いていた。
だが彼は、昏がりに浮きあがるように広がる、典雅に、高貴に、香り高く咲き誇る薔薇園を、美しいと、心奪われずにはいられない自分をも、自覚せずにはいられないのだ。
そしてそんな自分が、ただ無性に哀しかった。




