傷5
締め切ったカーテンから漏れる明るい日差しに、灯りを消したままの室内が仄かに浮かぶ。
ベッドにうつ伏せていまだ微睡みの中にいる、日焼けした、どこかあどけない寝顔を見つめていると涙が零れ落ちそうだ。ベッド端に浅く腰掛けて、くしゃりと、彼女は彼の髪を撫でる。さらりとした、でも硬いまっすぐな髪。自分とはまるで違う、芯のある――。
「もう行くの?」
しなやかな背中がかすかに反る。猫が伸びをしているみたいに。
「ええ」
「楽しかったよ。ありがとう」
寝転んだまま、肘だけ立てて頭を起こし無邪気に笑いかけてくる。
「さようなら」
「うん。じゃあね」
お別れのキスは、しなかった。
こんな子どもに振り回されて、泣いて縋るような真似だけはしたくない。そう決めて濃い口紅を引いたから。跡が残る、そう言ってこの子はいつも嫌がっていたから。
「ヨシノ!」
見慣れた背中を大声で呼び止め、アレンが黒いローブを翻して駆けている。追いつくと当然のように、ぜいぜいと息を弾ませて。そんな彼を吉野はくすくすと笑ってみている。
「お前さぁ、そんなに焦らなくたって、俺、どこにも行かないよ。帰ってきたばかりだってのに」
わずか二週間前に比べて、吉野はさらに日に焼けている。もうサウードたちと変わらないじゃないか、ってくらいに。アレンは呼吸を整えながら、ここに吉野がいることが、どうも信じられない自分に当惑している。
「こんなに早く戻ってくると思わなくって」
「なに言ってるんだよ。ASレベルの本試験だろ? 勉強みてやるからさ」
「ヨシノ、お帰り!」
中庭で立ち話している二人を目聡く見つけたクリスが、談話室の窓から身を乗りだして手を振っている。
「そこにいて。今、行くから」
そのまま窓を乗り越えるクリスに、笑いながら吉野は肩をすくめてみせる。
「おいおい、また引っ掛けて破っちまうぞ! 俺、もう嫌だからな、お前の繕いものするの!」
「大丈夫」
そう言いながらも、クリスはローブを持ち上げてぐるりと確かめる。
「戻ってくるの早かったね」
アレンと同じ事を言われ、吉野は苦笑して頭を掻いた。
「じきに試験だろ? それに結婚式に出席するんだ。だから週末はスイスだよ」
「あ、解った! フォン・ヴォルフ家だね! 祖父も出席するんだ」
「うん。僕もだ」
アレンは微妙な顔で頷いた。ちらりと吉野の顔を盗み見する。
「ヘンリーは?」
平気な顔で訊ねた吉野の気持ちが読み切れないまま、短く答える。
「兄も出席するって」
「ヘンリーに、クリスの祖父ちゃんも来るんなら都合がいいな。一気に話が詰められそうだ」
訝しげに首を傾げたアレンに、吉野は楽しそうに指を立てる。
「クリスの祖父ちゃんな、お前らの父親のこと、良く知ってるぞ。造園仲間だったんだって。まぁ、話は花のことばかりになっちまうけどな」
「へぇ~!」
頓狂な声をあげたのは、クリスの方で、「だから時々、夕食の席での会話にソールスベリーの名前がでるのか!」と、妙に感心したように頷いている。
「会ったときにでもさ、訊いてみろよ。きっと、いろいろ教えてくれるよ。思い出話を語りたくって堪らないんだ、あの祖父ちゃん。お前なら、年寄りのそんな話にでもつきあえるだろ?」
「もちろん」、と嬉しそうに頷くアレンを見つめ、クリスは羨ましそうに吐息を漏らした。
「僕もきみのお父さんの話なら聞きたいかも」
「お前さぁ、普通に訊けばいいじゃん。お前の祖父ちゃんなんだからさ。孫に怖がられてる、って寂しがってたぞ」
真面目な顔で嗜められ、クリスは苦笑いを吉野に返した。
「いやね、やっぱり恐れ多くてさ」
「うん、解るよ」
アレンも神妙な顔で頷いている。自分が祖父と会話をする姿など、想像もできないもの、と。
それよりも――。
クリスの前で訊いてもいいものか迷いながらも、アレンは我慢できずに言葉を濁して吉野に訊ねた。
「きみは、その、辛くはないの?」
「なにが?」
きょとんとしている吉野に、アレンはさらに口篭る。
「だから、彼女が結婚するって」
「ああ、いいことだと思うよ。あいつもこれでアッシェンバッハ家の重責から逃げられるしな。もう大体の負債は片づけ終わったしさ、フォン・ヴォルフなら両家を統合してうまく管理していけるだろ」
嬉しそうに笑う吉野が嘘を言っているとも思えなくて、アレンは不思議そうに首を傾げた。
「彼女は――」
「言ったろ? 俺は欧州ルベリーニの財務顧問だって。マリーネは顧客の一人だよ」
へぇー、顧客に車で送ってもらってキスして別れるの?
と、言ってやりたかったが、アレンはぐっと我慢した。それはあまりに見苦しい。代わりに深く嘆息する。
僕はなんて奴を好きになってしまったのだろう――、と。
澄み渡る空を眺めて、ほんの少し彼女に親近感を覚えて同情し、それでも吉野が、今、ここにいることを嬉しいと思う自分にちょっぴり罪悪感を覚えながら。
そして、友人という、なんとも都合のいい名称に彼は心から感謝した。まるでこの言葉は免罪符のようだな、と、かすかに苦笑しながら。




