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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
511/805

  傷4

 いい様のない焦燥感にかられながら、かえって何をする気にもなれず、飛鳥はふくれっ面のままコンサバトリーの中央に座りんでいる。


「ご機嫌斜めだね」

 ティーセットを運んできたヘンリーが、背後から声をかける。

「なんだか煮詰まっちゃって」と、飛鳥は苦笑いする。

「ヨシノが帰ってこないから?」

 飛鳥の横に腰掛けて、ヘンリーも残念そうに嘆息する。

「あいつ、何、考えてるんだろうって。やりたいことがあるのは解るけど。ろくに連絡も寄越さないでさ――。前はこんなじゃなかったのに」


 片膝立てた上に肘をついて軽く覗き込むヘンリーに、飛鳥は真剣な顔で言い返した。ヘンリーはクスリと笑い、丁寧にお茶を淹れ飛鳥の前に置く。


「それは、いつまでも変わらないって訳にはいかないよ、彼だって。きみにしてもそうだろう?」

 飛鳥はやはりふくれっ面で、ヘンリーの淹れた紅茶を口に運んだ。

「でもきみは、ちっとも変わらないじゃないか。昔から自信家で、迷いなんてないみたいだ」

「僕だって変わったよ」

「どこが!」

「自分で紅茶を淹れられるようになった」


 大学に入学したての頃、確かにヘンリーは、身の回りのことを自分で一切何もしなかった。こだわりがない訳ではないのに、それがないのなら、それはそれで一向にかまわないのだ。香り高い紅茶がないなら白湯を飲めばいい。意外にも彼はそんな人だった。


「きみがいるからだよ。きみに美味しいお茶を飲ませてあげたいから、お茶の淹れ方を覚えたんだ」

 臆面もなくさらりとそんな事を言ってのける相手に、飛鳥は視線を逸らして苦笑を漏らす。

「ヨシノも同じじゃないかな。大切にしたい相手がどんどん増えていっているんだよ。きみだけじゃなくね。今まできみだけのために使われていた時間が分散されて、きみはやきもちを焼いているって訳だ」


 くすくすと笑われ、飛鳥はまた唇を尖らせる。

「子離れしなきゃいけないのは、きみの方だね」

 駄目出しの一言に、ぷいと顔を背ける。

「ほら、そうやってすぐに拗ねる」


 解ってはいるものの、寂しいものは仕方がないではないか。日本にいた時は、吉野はどこに行ったって必ず家に帰っていたのだ。それが当たり前だった。帰ってこない、別の居場所を見つけるかも知れない、なんて考えられなかった。いや、考えたくなかったからこそ、吉野に関わる連中が恐ろしくて仕方がなかったのだ。


 必ずここに帰ってくる。

 そう信じていたからこそ、あいつの自由を願えたのに――。


 少しくらい落ち込んだっていいじゃないか。


 飛鳥はふくれたまま、そっとヘンリーを盗みみる。

 出逢った頃のままの、光の中にいるヘンリーを。


 生まれながら、すべてをその掌に握ってきたような彼に、自分の不安が解るはずがない、そう思わずにはいられないのだ。



「そうはいっても、きみの不安は妥当だと思うよ。何かあった時にすぐに飛んでいけない距離っていうのは、辛いよね。僕も彼が心配だよ」


 コンサバトリーの眼前に広がる鮮やかな緑のさらに上、透明な青空の続くその先に想いを馳せるような、彼の、その空以上に深みのある澄んだ瞳に、飛鳥は思わず見とれていた。


 至高の空はすべての者の上に在り、その存在を見守っている、そう信じさせてくれる瞳だ。どんな些細な不安や不満でも受けとめて、冗談交じりに揶揄いはしても、決してさげずんだり馬鹿にしたりしない。


 彼がこうしてここにいてくれるから、吉野は安心して自由に飛びたてたのだ、と、飛鳥はふっと納得にいたる。



「もしきみの心配が募るようなら、」と言いかけたヘンリーに、飛鳥は頭を振った。

「ありがとう、うん、大丈夫だよ。あいつのことだもの」


 ひょいと肩をすくめて腕を背後の床につき、飛鳥は背筋を仰け反らせた。


「さすがに、六歳はないよなぁ、て思ったよ。結局、あれだろ? 政治的な駆け引きな訳で。互の陣営にとって、あいつとその()が人質みたいなものなんだろ?」

「――知っていたの?」


 唖然と言葉を詰まらせるヘンリーに、飛鳥は屈託ない笑顔を向ける。


「うん。ロニーにね。なに前時代的な事やってるんだって、呆れもしたけどさ、それが今でも通用している地域なんだよね。理解はできないけれど、そういうものか、て受け入れなきゃいけないんだろうね」

「――アスカ、きみ、意外に柔軟なんだね。僕には到底受け入れがたいけれど」


 こんなに驚いている彼も珍しい、と逆に驚いて、飛鳥は声をたてて笑った。


「日本人だからね。大体さ、結婚しようにも後十年は、あいつが日本国籍捨てない限り不可能じゃないか。それに、あいつがイスラム教徒になるのも有り得ないよ」

 頷きながら、なぜそう思う? と問いたげなヘンリーに飛鳥は笑いながら答えた。

「醤油や味醂の調味料が使えないんだ。アルコールが入っているから。ハラル調味料は味が落ちるんだって」

「ああ――。確かに、彼には大問題だ」


 ヘンリーも思わず笑みを漏らす。


「吉野の肉じゃが、食べたいなぁ」

「だし巻き玉子もね」


 英国(ここ)だって、彼らにとっては異国であることに変わりない。

 互いが互いの帰る場所。その事実も変わらないまま――。






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