傷3
鮮やかな新緑の芝生の広がる高台に腰を据えて、アレンははちみつ色の館を見下ろしていた。暖かな陽光が降り注ぎ、風は優しく頬を撫でていく。柔らかく包みこむように慰めてくれる自然に頬を緩めて、彼は「ありがとう」と声に出して呟いた。
「誰に感謝?」
振り返ると、デヴィッドがスケッチブックを抱えて微笑んでいる。
「すべてに、かな」
アレンもにっこりする。
「こっち向きなんだ」
首を傾げるアレンの横に腰かけ、デヴィッドはスケッチブックを広げる。
「桜――、ソメイヨシノが満開なのに」
「背中にある方が、見守ってもらえているみたいで嬉しくて」
「アラビア半島は遠いものねぇ」
「あれ? この絵……」と開かれたページに描かれた落描きのようなラフ画に目を留め、アレンはデヴィッドを不思議そうに見上げる。
そこには見覚えのあるクノッソス宮殿や壁画が、さらさらと鉛筆で描かれていたのだ。
「ああ、これ、メイボールの時の下絵」
驚いて目を丸くしているアレンに、デヴィッドの方こそ狐に摘まれたような顔を返す。
「知らなかったの? アスカちゃんの映像の下絵は僕が描いてるんだ」
「今までの、全部ですか?」
「全部ではないなぁ、アスカちゃん、写真なんかとも合成して作ったりするし、いろいろ。フランスのテロの時の映像は、僕がウイスタンにいた頃お遊びで描いた奴がベースになってるんだ。別の意味で度肝を抜かれたよ。アスカちゃん、よくあんな絵を残してたな、て」
ケラケラと声をたてて笑うデヴィッドを、アレンは尊敬の篭る眼差しで見つめている。
「見せてもらってもいいですか」
手渡されたスケッチブックを、アレンは一枚一枚丁寧に捲っていく。
「すごい――」
ほう、と感嘆の息をついている彼の、ページを捲っていた手が、ふと止まり進まなくなった。食い入るように眺めている彼に、デヴィッドはしてやったりとばかりに微笑む。
「これを見せてあげようと思って。片づけしてたら出てきたからさ。可愛いだろ? 日本で初めて会った頃はねぇ、生意気で、キャンキャンしてて、子犬みたいだったのにねぇ」
淡い色彩で描かれた、黄色い畳、焦げ茶色の柱、そこにもたれ掛かる、まだ幼く見える吉野――。その背後には灰色のブロック塀に囲まれた狭い庭。紫陽花が咲いている。
「ヨシノと、アスカさんの育った家――」
アレンは吐息のように呟いていた。
「いいところだよ。情緒があって、温かくて。町の人みんな優しかった。また、日本に行きたいなぁ、一緒に行こうか? それにクレタ島にも。結局、僕はギリシャは見られなかったし」
不満そうに唇を尖らせたデヴィッドに、アレンはふふっと笑みを漏らす。去年の夏期休暇では、デヴィッドはギリシャ空港までアレンを送り、ウィリアムに引き合わせてから、そのままスイスへ飛んだのだった。
「一緒にスケッチ旅行をしよう。きっと楽しいよ!」
にこにこと誘ってくれるデヴィッドに、アレンは嬉しそうに頷き返す。
「ありがとうございます。デヴィッド卿は、卒業したらこのまま兄の会社に就職ですか?」
「どうだろうねぇ、とりあえず院に進んでぇ。会社はねぇ、今は人が足りないからいいけど、もっともっと人材が育ってきたら僕の居場所もなくなるだろうからねぇ」
「え――」
「所詮、僕は素人だからね」
デヴィッドはごろんと芝生に寝転がり、透き通る蒼に視線を向ける。
「アスカちゃんに、この空の映像をTSで創ってもらおうか? 星空もいいけど、昼の空中も気持ちいいよぉ、きっとね」
すっと、空に向かって両手を伸ばす。
「眩しくて、きらきらしてて。その中にぽっかり浮かんだ、白いふわふわの雲の上に寝転がるんだ」
気持ちよさそうなその様子に、アレンも微笑んで頷く。頬に当たる風が心地よい。
「――ヘンリーはね、僕のヒーローだった。彼は僕を特別大切にしてくれたし、僕にはそれが素直に誇らしかった。だから正直なところ、サラにも、アスカちゃんにも、嫉妬したよ。だけどフランクのことはあまり知らないんだ。解るだろ? エリオットって、寮と部活が違うと本当に関わることがないからさ」
アレンは神妙に頷く。学校での行事は、ほとんどが寮か部活動での単位で行われる。同学年であっても、名前も顔も覚束ない相手などいくらでもいるのだ。
「僕が彼にとって特別な理由、きみは知ってるかな?」
ふいに真剣な瞳を向けられ、アレンはどぎまぎと言葉を探す。
「え――と、親戚だから?」
確か、そう聞いている。吉野に目を通すように言われた貴族名鑑でも、へぇ、と眺めた覚えがある。普段はそんな事はおくびにも見せないのに、と。
「僕がヘンリーに次ぐ、ソールスベリーの爵位継承者なんだよ。小父さんは爵位を放棄しているし、女の子は爵位を継げないからね。となると残るソールスベリーの血縁はラザフォードだけなんだ。ラザフォードの嫡男はラザフォードを、ソールスベリーの血筋が絶えた場合には次男がソールスベリーを継ぐ。もうずっと、そういう伝統なんだよ。ソールスベリーは直系が存続している一族じゃないんだ」
突然そんな話を始めたデヴィッドの意図が判らないまま、アレンはじっと聴き入っていた。
「ラザフォードは代々政治家で、ソールスベリーはその金庫番。それが、アーニーではなく僕が命を狙われる理由。ラザフォードだけじゃない、ソールスベリーにとっても打撃になるからね」
ヘーゼルの瞳に陰が差す。深い緑に変わった瞳を眇めて、デヴィッドは焦点の合わない空を眺める。
「だから、理由がなくても愛されるサラや、アスカちゃん、きみのことも羨ましかったよ」
アレンは奥歯を噛み、それは違う、と首を振る。
そんな理由だけの絆ではないはずだ――、と。そう言葉にして言いたいのに、唇が震えて声にならない。
「でもさぁ、僕はサラのことも、アスカちゃんも、もちろんきみのことも、大好きなんだよ。きみたちを好きで大切にしているヘンリーだからこそ、彼は僕のヒーローなんだ。――今でもね」
デヴィッドはにっこりと笑って身を起こし、アレンの頭をわしわしと撫でた。
「捨ててしまう必要はないんだ。好きの形は一つじゃないんだから。もうちょっとしたら、きっと、もっと楽になるよ」
優しい沈黙に包まれた二人の頭上で、駆けぬける風がさわさわと樹々を揺らし、その花弁を、淡紅色の涙のようにはらはらと舞い散らしていた。




