傷2
「ヘンリー、父に聞いたんだけれどね、」
帰国したばかりのアーネストが久しぶりにケンブリッジに顔をみせたと思ったら、居間に入るなりなんの前置きもせずに切りだしたのだ。
ヘンリーは訝しげに書類から顔をあげ、目前でなんとも微妙な顔で苦笑している彼を眺めた。アーネストはどさりとソファーに腰をおろし、一息ついて優雅に足を組んでいる。
「外務省で仕入れた噂らしいよ」
「外務省? アブド大臣かな、それともアブドゥルアジーズ?」
「相変わらずいい勘しているね。アブド大臣だよ。娘をね、英国在住日本国籍の一民間人と婚約させるってもっぱらの噂だって」
「まさか、その日本人って……」
「そのまさか」
「でも娘って……、彼、まだ三十歳もいっていないだろ?」
「娘は六歳だって」
いつも冷静なヘンリーだが、さすがにこれには吹きだした。
何の冗談だ、と。
だがアーネストはいたって真面目な顔をしている。
「姻戚関係を持つのは政治上の駆け引きだからね」
「現実問題として結婚するわけじゃないのか」
「おそらくは。でも本当に婚約したら、彼、婚約者として扱われることになるよ。うちとしても、知りませんでしたじゃ済まされない。仮にも、この国での彼の保護者だからね」
「信じられないな」
いくらなんでも無理がありすぎる。と、ヘンリーは苦笑して首を振った。
まず身分が違いすぎる。いくら吉野が優秀にしろ、なんの実績もない一学生にすぎない。進めている砂漠のプロジェクトにしても、実質的な責任者の中に吉野の名は含まれていないのだ。金融関係にしても同様。加えて宗教上の問題もある。吉野をイスラム教に改宗させるつもりなのか? どう考えてもあり得ない。アブド大臣がその気でも、側近たちが許すはずがない。
「僕もそう思うよ。でも、まさか、ってことをするのがアブド大臣だからねぇ」と、アーネストは同意を示しつつ、呆れ半分でつけ加える。
アブド大臣は、身分や年功序列を無視した大抜擢で因習化した政府を改革し、実績を上げてあの若さでここまでのしあがった人物なのだ。黒い噂も尽きなかったがそれだけではない。本来は敵対関係にある現国王も、無碍にできないほどの実力と背景が彼にはあった。
「すべてにおいて型破りか――、現実の結婚云々はともかく、その意図は? ヨシノはサウード殿下から大臣に乗り換えるのかい?」
「それがそうじゃないんだ。ややこしいことにね」と、アーネストは肩をすくめる。
「卒業したら、ヨシノを正式に殿下の側近に召抱えることが決定しているらしいんだ。そうなると、ヨシノも十八だし年齢的に引く手あまただろ? 大臣としては先手を打ちたい、てところかな」
「大臣はサウード殿下と協調路線を取るってこと?」
「表向きはそうなるね。実際は判らないけれど」
ヘンリーは小さく吐息を漏らした。
「信じられないな」
ふたたび、同じ言葉が口からついてでる。
「アスカには、まだ黙っておいてくれるかい? 信憑性がない話だしね」
「相手が六歳じゃ笑い話だしね」
「僕は笑えないけれどね」
二人で視線を合わせてみたところで、乾いた笑いしか出てこない。
「とにかく、憶測でどうこうよりも本人に訊こう。彼、もうイースター休暇で帰ってくるだろう?」
「そうだね」
帰ってくる――。
いつの間にか当たり前になっているその言葉が、彼の胸になんとも温かく響いていた。ヘンリー、そしてアーネストも、今度こそ自然な笑みを湛えていた。
その頃エリオットのカレッジ寮では、フレデリックが自室に篭って、吉野から受け取ったアレンの「取り扱い説明書」を読んでいた。――そう、初めは微笑みながら。
ノートにびっしりと綴られた、アレンの好きな食べ物、嫌いな食べ物、その理由。癖。習慣。自分が知っているものもあったけれど、知らないことの方が多かった。二年間同室だった自分よりもずっと多岐にわたって詳しく細かく、吉野はアレンを観察していた。彼が安心して暮らせるように心を配って。その記述は、アレンの言葉の端々に見える生い立ちや家族への想い、過去のトラウマにも触れていた。
吐き気がするようなその内容に、フレデリックはとうとう読み続けることができなくなった。
嗚咽が止まらなかった。
僕に、吉野の代わりが務まるわけがない……。
愛するということは、相手の痛みを丸ごと抱え込むことだなんて――。
理解したうえで、同情も憐憫もみせることなく対等な関係を築きあげていくということ。
「あいつは強い奴だ」と言った吉野の見ていたアレン。こんな彼のもつしなやかな強さに、自分は気づきもしなかったなんて。
きみは、彼を愛しているんだよ。
誰もきみのようには、彼を愛することはできない。
それなのに――。
どうして駄目なのか。なぜ駄目なのか。
フレデリックには理解できなかった。
自分如きに吉野は理解できない。
情けなく、恥ずかしく、どうしようもなく哀しくて堪らない。
吉野、きみはいつも正しい。
けれど、きみは一つだけ、僕の想いを見誤った。
僕は、アレンを想うのと同じくらい、きみのことも想っている。二人が心を偽ることなく、ともにいる事を願っているんだ。
それが、どんな形であろうとも――。




