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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
507/805

  取捨8

「あんまり熱くなるなよ。お前、ヘンリーの事となるとすぐキレる」

 カフェテリアから中庭に出るなり、吉野はため息混じりで小言を浴びせ、アレンを小突いた。

「兄は関係ないよ」

 唇を尖らせて抗議するアレンに、吉野は表情を和らげてくすりとした笑みを返す。

「まぁ、いいよ。俺も腹が立ったから」


「それで、真面目な話って?」

 クリスが好奇心いっぱいの目でそんな二人に割ってはいった。吉野はちらりとサウードの顔を伺う。サウードは判らないほどわずかに首を横に振る。

「ああ、嘘だよ。あの連中が面倒だからさ、さっさと出ようと思っただけだ」

 吉野はひょいと肩をすくめてみせた。

「なーんだ」

 憮然顔のクリスとは違い、アレンは納得いかない様子で吉野を見つめていたが、何も言わずに視線を伏せていた。






 その週末、ロンドンでは――。

 突然の吉野とアレンの訪問に、フレデリックがあたふたと円型の疵だらけのテーブル上を片づけながら、椅子を引いて二人に勧めていた。


「来てくれてありがとう。こんなところだけど、とりあえず座って。今、お茶を淹れてくるから」

「別にいいぞ、お茶くらい」


 吉野の声にフレデリックは片手をひらひらと振って応えると、キッチンに消えた。


 初めて訪問したフレデリックの実家に、吉野もアレンも目を瞠り、言葉を失っている。その戸惑いを敏感な彼は感じとり、心を落ち着かせるための時間を欲したのだ。自分にも、彼らのためにも――。



 窓越しに見える橋梁を渡る電車の轟音が響き渡る。

 狭い部屋には古ぼけた家具がところ狭しと置かれ、テーブルに着くにも、チェストやテーブル上に置かれた物を落とさないよう、細心の注意を払わなければならないほどだ。くすんだ安っぽいピンクの花柄の壁紙は、天井に近い上方が剥がれて落ちかけている。そして、なんともいえない独特の籠った匂いがする。

 これが、彼がエリオットに入るまで育った家なのだ。



 やがて運んできたティーセットをテーブルに置き、フレデリックは丁寧にお茶を淹れて二人の前に置く。


「そんな上等の茶葉じゃないんだけれどね」

「学校のカフェテリアよりはマシだろ? あそこはティーバッグだ」

「きみがあまり煩く言うから、僕もお茶だけはちゃんと淹れるようになったよ」


 フレデリックは笑いながら椅子をひく。


「学校の方、どう?」

「騒がしいよ」


 アレンの控えめな返事に苦笑で応え、フレデリックはカップを口に運ぶ。吉野は単刀直入に質問を切りだした。


「俺が話した以上の内容だったから驚いたよ。あの本のネタ、どこから手に入れたんだ?」

「フランクの日記を見つけたんだ。それに、アーネスト卿にも話を聴いたよ」


 フレデリックは静かに微笑み、ちょっと謝るように眉を上げ、二人を見つめた。


「ごめんよ。君たちに迷惑をかけるかとは思ったんだけど。――兄の想いを伝えたくて」


 しばらく間を置いて、押し殺すように吉野は呟いた。


「ヘンリーにか?」

 フレデリックは黙ったまま頷いた。

「全部、本当?」

 アレンの口からも、驚きと戸惑いを含んだ一言が零れ落ちる。

「さすがに、全部じゃないよ」

 フレデリックはクスクスと笑った。

「兄は小説みたいにかっこいい人じゃなかったし、そりゃあ、いろいろと脚色してあるよ。でも、綴られている彼への想いは本当」


 言いながら、フレデリックは遠くを見るように目を細めた。


「彼に知っておいて欲しかったんだ。いや、彼は、知っていたのかな、って気もする。その気持ちに応えられないから、気づかないふりをしていただけで――。でも、だからこそ、言葉にしてちゃんと伝えたかったんだよ。僕はね、胸の内で漠然と想っている言葉と、言葉として口から発せられるそれは違うと思うんだ」


 言葉を切って、フレデリックはいったん紅茶で喉を湿らせた。アレンの瞳をまっすぐに見つめながら。


「強い想いが口から発せられて言葉になる時、言葉はその人の魂を乗せてちゃんと相手に届くと思うんだ。だから、形のある言葉にしたかったんだよ」


「相手を困らせる事になってもか?」

「それでも」

 瞼を伏せ、フレデリックは頷いた。

「もうどうにも成りようのない、報われることのない想いだからこそ、きちんと葬って形のある墓標を立てたかった。これって、僕の我がままだね。――ごめんよ、二人とも」


「どうして謝るの?」


 アレンの澄んだセレストブルーが、フレデリックに注がれている。


「兄は今でも、フランクの事をとても大切に想っているよ。だって兄は、今でもコーヒーを二杯続けて飲むもの。一杯は自分の分、次の一杯はフランクの分。心の中で話しかけているんだ、って言っていたもの」

「あいつ、そんな恥ずかしいこと口にするのか?」

 目を丸めた吉野に、アレンはプンッと怒ったように唇を尖らせて言い返した。

「違うよ、ジャック、パブのご主人だよ。もとは彼が始めたことなんだ。兄にコーヒーを淹れる時に、傍らにフランクの分も淹れて置いていたんだ。それを兄が飲み干すのが、習慣になったんだって」


 兄だって、フランクを想っていたのだ。たとえそれが、フランクの望んでいた形とは違っていたのだとしても――。


「ありがとう、フレッド」


 唐突に伝えられたアレンの言葉に、フレデリックは優しく微笑んで頷いた。だが吉野は何も言わずに、そんな二人をぴりぴりとした表情で眺めていただけだった。




 フレデリックの家を辞して、ナイツブリッジのアパートメントに帰り着いたアレンは、玄関のドアを締めると同時に、先に行く吉野を呼びとめた。


「フレッドは、刷りあがったばかりの小説を一番に僕にくれたんだ」

「そうか、良かったな」


 振り返った吉野は微笑んで目を細めている。その仕草がすっかり癖になっているみたいだ、とアレンは思う。もう表情筋も、笑顔を作れるほど回復してきているのに。


「献辞はきみに――。だけど、この本を一番に贈りたい相手は僕だったから、って」


 吉野は軽く頷く。それはそうだろうと思う。フレデリックにとっても、アレンにとっても、互いがこの学校でできた初めての友人なのだから。


「彼が僕に伝えたかったこと、届いたよ、ちゃんと」

「うん」

「愛している。――僕は、きみを愛している」


 玄関のドアに寄りかかってそれだけ告げると、アレンは唇をぎゅっと噛みしめて俯いた。



 フレデリックがアレンに伝えたかった事――。


 それは、伝える事で報われない想いを葬れと、墓の下に埋めてしまえという事だ。アレンの想いと形は違っていても、確かに吉野はアレンを大切にしてくれていたのだから。


 想いの形を変えて、生き直せ――、という事なのだ。



「ありがとう。でも、俺の心はお前にはやれない」


 吉野の声は優しかった。おそらく、その瞳も。いつだって吉野は優しい。出逢ったころからずっと優しい――。


「解っている。かまわないよ。ただ伝えたかっただけなんだ」

「ごめんな」

「謝らないで。僕は、きみを想うことで、こんなにも幸せなのだから」


 囁くようなアレンの告白に、吉野はどう答えていいのか判らなかった。アレンは息を殺して面をあげ、その場に留まったまま動けない吉野に、にっこりと笑顔を作って呼びかける。


「もう行って。弓道に遅れてしまうよ」




 吉野の足音が遠ざかる。階段を上る軽い足取りが聞こえる。ドアの開く音。閉まる音。


 玄関先でこのまま蹲っているわけにはいかない、と、アレンはのろのろとキッチンへ、そこから続く温室へと足をひきずるように移っていった。




 ――スノードロップは、冬の終わりと春の訪れを告げる花だって。


 ガラス張りの向こうに飛鳥と見たスノードロップはとうに終り、今は黄水仙にクロッカスが咲いている。

 その飛鳥に、ロンドンに行くのならハイドパークの桜が盛りだよ、と教えてもらった。ちょうど本社に行ってきたばかりだといって。



 明日は桜を見にいこう。



 ――いや、駄目だ。僕はきっとそこでもきみを探してしまう。きみの名前と同じだという、ソメイヨシノという名の桜を。


 伝えたところで終わらない、葬ろうとしても死なない想い。きみを想う僕が僕自身だ。きみは僕の命そのもの。捨てることも、殺すこともできるはずがない――。


 フランク、あなたもこんな想いを抱えて生きていたのですか?


 僕は今、あなたの存在に救われています。



 小説に託された親友の想いに、アレンは堪らず、嗚咽を漏らしていた。


 




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