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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
503/805

  取捨4

「ヨシノはまだ戻らないの?」

 頭上に降ってきた声に、図書室の赤いベンチに腰かけているフレデリックは面をあげる。膨れっ面のクリスと目が合うと、彼はどっかりと隣に腰を下ろした。そして身体を捻って窓を覗く。

「つまらないよ。サウードもいないし」と、結露して白く曇るガラスを拳で拭っている。


「こう寒くちゃ、アレンも中庭(コート)にでてこないね」

 見るからに退屈そうなクリスの様子に、フレデリックはクスリと笑って、「ヨシノたちはあと少しだけ帰りが遅れる、って連絡をもらったところだよ」と、宥めるように優しく告げる。

 だがクリスはその返事が聞こえていないのか、じっと窓の向こうを睨んだままだ。

「フレッド、あれ、どうやっているんだろう? 日は陰っているのに」

 眉を寄せ、声を落としてクリスは早口で囁いた。

「モールス信号じゃないかな」

 フレデリックの背筋にぞわりと悪寒が走る。彼もまた、ぼやけた窓ガラスをテールコートの袖口で急いで擦る。


 クリスの指差す方向に、キラ、キラ、と光が点滅する。


「あ・と・ひ・と・り」


 フレデリックとクリスは、一瞬、眼と眼を見交わした。と同時に二人は駆けだしていた。背後で図書委員の、「館内を走るな!」と喚く声が響き渡る。


 長い廊下を全力で駆けて、美術室に飛び込んだ。


 ガラリと開けられたドアの向こうで、アレンがびっくりしたように目を丸めている。

「どうしたの? 血相変えて?」

 クスクス笑いとともに持ちあげた筆が、ぴっ、と彼の頬を悪戯に汚す。

 フレデリックは息を弾ませながら、「今日は、きみ一人なの?」と室内を見回す。その横でクリスはドアを掴んだまま、まだゼイゼイと息を整えている。


「あ、ついさっきみんな帰ったところ。僕はもう少し進めたくって」


 きょとんとした、いつもとなんら変わらないアレンの様子に安堵して、二人は一気に、気負っていた力が抜けていくのを感じていた。



「さっき、ね、イタッ!」

 悲鳴をあげたクリスに、フレデリックは素知らぬ顔で「大丈夫?」などと白々しく訊ねながら、彼の足を思い切り踏んずけていた足をどけた。

 恨みがましい涙目を向けて唇を尖らせるクリスに、アレンには気づかれないように気づかいながらフレデリックは目配せする。


「どうしたの?」

 小首を傾げるアレンに、フレデリックはにっこりと笑みを返す。

「大したことないよ、ね、クリス。何か踏んだんだね」


 僕の足をね――。


 憤然としながらも、クリスは頷いて押し黙る。吉野もサウードもいないのに、アレンを不安にさせるようなことを言うべきじゃない。それは確かに、正しい。



 クリスマスコンサートで、明確な吉野の敵であった役員は辞任させた。けれど、まだ生徒会がアレン獲得を狙っていることに変わりはないのだ。学校一どころか世界中で賞賛される美貌のアレンを取り込みたい、加えて、米国で有数の資産家であるフェイラー家の嫡男でもある彼を派閥に加えて、今のうちに永続的な関係性を築きたいという思惑もある。


 上級生にあがり、それまでは無縁だった派閥間の争いや、卒業後のOBとの関わり、政治的な駆け引きが現実の問題として目前に浮上して、フレデリックもクリスも、監督生として常に緊張を強いられているのだ。

 監督生といえば、アレンだってそうなのだが、身辺に気をつけることと、そのような思惑がある、という程度にしかこの話はしていない。あまりにも当事者すぎて、さすがに具体的に話すのは憚られたのだ。





「あと、どれくらいかかる?」

「うーん、どうだろう……」


 すでに制作に戻り、集中しているアレンは生返事だ。フレデリックはクリスと顔を見合わせ、適当な椅子をアレンの邪魔にならないように少し離れた場所に運んだ。


 二人は隣り合わせに腰かけて、TSを立ちあげてチャットを始めた。それぞれの胸元に仮想キーボードを出し、文字を打ち込んでいく。


 クリス『さっきのモールス信号、なんだったんだろう?』

 フレッド『一人でいるところを生徒会に入るように説得かな。今はヨシノがいないし。アレン一人なら御しやすい、そう考えているんじゃないかな』

 クリス『イスハークがいないのも辛いね』

 フレッド『ああ、例の……』


 二人は顔を見合わせて苦笑う。


 サウード殿下のご友人に手をだしたら、不敬罪で、殿下の近衛に秘密裡に消されるらしい――。


 吉野が流したこの噂も、効力が落ちてきているようだ。噂をもう一度流すのもいいかもしれない。


 今さらながら、吉野が陰でアレンを守ってきた事実に気づき、フレデリックは胸が疼いた。こんなに大切にしているのに、吉野は決してアレンとの距離を今以上には縮めようとしない。それどころか、逆に距離を置こうとしているようにさえみえる。

 吉野の心は、とうにこの学校から離れているのだ。

 アレンが自分なしでも一人で歩いて行けるように、見守りながら、少しづつ、少しづつ背を向けている。その背中を追い続けるアレンを見ていることが、フレデリックには堪えられないほど痛ましく思えてならなかった。



 フレデリックは席を立ち、アレンの背後から描きかけの絵を覗き込んだ。


 雪景色の中の吉野。遠くを見つめる吉野。

 彼は、きみの絵の中ですら、きみを見ていない――。


 その事実が、彼は、堪らなく哀しかった。

 




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