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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
501/805

  取捨2

「ヘンリー」

「なんだい、サラ?」

 サラはくるりと身を捩り、ソファーの背もたれに腕をかけた。床の上にぺたりと腰をおとし、暖炉のなかで揺らめいている金色の炎を長い間見つめていた瞳が、ヘンリーの端正な横顔に向けられる。


 手元の書類から顔をあげ、ヘンリーはサラの髪をさらりとひと撫でして、その訴えかけるような瞳に応える。


「もうハーフタームでしょう?」

 どことなく落ち着かない様子のサラを意外に思いながら、ヘンリーは質問の意図を察して、簡潔に告げた。

「アレンは明日ここに来るよ。でも、ヨシノは今回は来ないよ」


 あ、がっかりしている――。


 サラのわずかな表情の変化に、ヘンリーは思わず笑みを零し、「彼はサウード殿下の国へ行くそうだよ」と、慰めるように彼女の髪をもう一度優しく撫でた。


「ヨシノ、今は何の研究をしているの?」

「研究?」

「彼、日本の『杜月』にアスカの考えた特殊温室ガラスを発注してる。それにスイスにいた時は、世界中の大学の学術論文に片っ端からアクセスしていたもの」


 研究――。


 吉野に関して、ヘンリーは金融にばかり気を取られていて、その方面にはまったく意識を向けたことがなかったのだ。


 ヘンリーの、してやられた、とばかりの唖然とした顔を見上げて、サラは不思議そうに小首を傾げる。


「彼が何に興味を持っているか判るかな?」

「今まで集めたデーターを分析すれば」

 ヘンリーの厳しい表情に、サラまでもが緊張してしまったかのように声音を強張らせて応じている。


「何言ってるんだよ! そんなことならアスカちゃんに訊くのが一番早いに決まってるでしょ!」


 ヘンリーの向かいでスケッチブックに顔を埋めていたデヴィッドが、いきなり頓狂な声をあげた。


「僕らに知られて困るような内容じゃなきゃアスカちゃんが知ってるよ。彼が知らないようなら、――ヤバイことなんじゃないのぉ?」


 もっともな意見に苦笑して、ヘンリーはすっと立ちあがる。

「それもそうだね、訊いてくるよ」


「行動が早いねぇ」

 その背中を見送りながらデヴィッドは口笛を鳴らした。そして揶揄うような視線を、不服そうな膨れっ面を肘掛けにもたせかけているサラに向ける。

「ヨシノが来ないの、寂しいんだ?」


 だがサラはそんな彼の問いかけは無視して、さっと身を翻すとソファーの肘掛の陰に引っ込んでしまった。





「ん? 吉野が興味持っていること? そうだなぁ、あいつ多趣味だからなぁ――。あいつの研究している分野なら、答えられるんだけど――」

 頭を捻る飛鳥に、ヘンリーは慌てて言い添える。

「そう、それでいいよ。彼、何を研究しているんだい?」

「農業。温室栽培だよ。あいつ野菜好きだから」


 あまりにも拍子抜けした回答に、ヘンリーはぽかんと目を瞠る。


「ああ、確かエリオットに温室を造ったんだったね。まだ続けていたんだ」

「学校の農園からは、あいつはもう手を引いているらしいけどね。そこは校内の生物サークルや園芸部、市民グループが協力して野菜作りを続けているそうだよ」


 ヘンリーの落胆とは裏腹に、飛鳥は嬉しそうに顔をほころばせて口調も楽しげに語っている。


「ヘンリー、僕はね、本当に嬉しいんだ。あいつが『杜月』や僕のためじゃなくて、自分が本当にやりたい事を見つけてくれて」

「それが、野菜作り――」


 吐息混じりのヘンリーの呟きに、飛鳥は鳶色の瞳をきらきらと輝かせて頷いた。


「そうだ! ちょっと待ってて」


 飛鳥は、動かないで、というふうに手のひらでヘンリーをその場に留まらせると自分一人立ちあがり、本棚に無造作に置かれているファイルをバサバサと大雑把にどかし始める。

 本棚に、どうして本も資料も平積みしているのだろう、とヘンリーは、いつも疑問に思うのだ。立てて入らないサイズではないのにもかかわらずだ。


 よくどこに何が置かれているのか迷わずにいられるな――。


 床の上にまで積み重ねられた本の山。そこら中に散らばり、重なりあう図面。気をつけて歩かなければパソコン機材のコードに足を取られてしまいそうな床。

 見慣れているとはいえ、あまりにも乱雑な飛鳥の部屋を見回して、ヘンリーはため息を呑み込む。彼には、散らかっているとしか見えないこの部屋も、(あすか)にとっては、彼なりの規則性と調和があるらしいのだ。勝手にものを動かしたりすると、ぷっと膨れて怒られてしまう。

 たまには掃除をさせて欲しい、とメアリーが愚痴を零していたが、それも仕方ない。


「ああ、あったよ!」


 書類の散らばる床の上のわずかなスペースで飛鳥を見上げていたヘンリーの前に、飛鳥は、邪魔な、今は必要のない図面たちをバサバサと脇に寄せて空きを作った。それから嬉しそうに見つけだしたファイルをヘンリーに手渡し、次いで、丸まっていた巨大な図面を広げて見せた。


「これが、彼のやりたい事――」


 眼前に広がる青写真を、ヘンリーは息を呑んで凝視する。


「すごいだろ! あいつらしいっていうかさ!」



 海に近い砂漠に造られた集光型太陽光発電施設は、溶媒塩の代わりに砂漠の砂を使う新方式を採用している。海水を淡水化した水で行う新冷却システムは、太陽電池の効率を劇的に高めるだけではなく、その過程で発生する熱を、海水浄化、吸収式冷凍機での冷房に利用できるのだ。その冷房で、砂漠に築いた巨大な温室で野菜を育てる。


 これはまさに、砂漠という地の利を生かした野菜造りの青写真なのだ。


「あいつ、きみやアーニー、デイヴに感謝してる、って言っていたよ」

 おもむろに顔をあげたヘンリーに、飛鳥は満面の笑みを湛えて喋り続ける。

「雇用を創出することが特権階級の義務であり責任だ、って教えられたって。これがね、吉野とサウード殿下の夢なんだよ。いずれは石油依存から脱却して、まずは雇用と食料の確保を。それから、この技術をもっともっと高めていって、砂漠を少しづつでも緑化していきたいって」


 そこで言葉をきった飛鳥に、ヘンリーは自嘲的な笑みを浮かべて呟くしかなかった。

「正直、驚いたよ。僕はてっきり……」

「僕だってそうだよ、ヘンリー。あいつがしょっちゅう殿下の国に行くのは、金融取引のためだとばかり思っていたもの。――ハワード教授には申し訳ないけどね、僕は、あいつが数学を選ばないでくれたことが嬉しいんだ。あいつは自由な鳥だからね。狭い研究室の中では、きっと窒息してしまうよ。僕はどうしても、そんなふうにしか思えないんだ」

「それに、今の数学者の立ち位置が危険だからだろ? 国防セキュリティ、それに金融界から引っ張りだこだものね」


 静かな口調で告げられたヘンリーの洞察に、飛鳥は答えなかった。視線を伏せ、まるで独り言のように言葉を継いだ。


「あいつ、ケンブリッジに進学するの、迷ってるんだ。でも僕は、何よりもあいつのやりたい事を応援してやりたい」







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