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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
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取捨

「やれやれ、やっとご帰宅か」

 皮肉な口調とは裏腹に、居間に入ってきたヘンリーは、寛いでいるアーネストに嬉しそうに微笑みかけている。

「ご挨拶だね。これでも実家にも寄らずに飛んで帰ってきたのにね」

 アーネストは、つんと澄ました笑みを浮かべてティーカップを口許に運ぶ。

「ご苦労様。で、成果は?」

「どれから知りたい?」

「まずは、ヨシノかな」

 予想通りのヘンリーの即答に、アーネストは呆れたように眉をあげて苦笑を漏らす。

「そこは、TS増産から、って言って欲しいね。僕としては」

 だが、ヘンリーは緩く首を横に振る。

「重要度からいくと、」

「解っている。ヨシノだね、確かに。彼絡みの案件は――、と」

 アーネストが鞄から書類を引っ張り出している間に、ヘンリーは傍らに立つマーカスにお茶と軽食を頼んだ。彼も今、帰宅したばかりなのだ。夕食も済ませていない。

「きみ、食事は?」

「機内で済ませたから僕はいいよ」

 アーネストはポケットから取りだした銀縁眼鏡をかけ、書類のチェックに余念がない。

「まずは、これから」

 厚みのある束から綴じられた書類を引きだし、ローテーブルのヘンリーの膝下に置く。

「一番の気がかりはこの辺りだろ?」

 ヘンリーはその書類を手に取り、早速目を通し始めた。




「マザーグースにあるだろう? 


 男の子って何でできてる?

 男の子って何でできてる?

 カエルとカタツムリと仔犬のシッポ

 そんなものでできてるよ


 彼の場合は、外貨と原油とリチウムと、そんなものでできてるよ、だね」


 ヘンリーの口ずさんだ懐かしい童謡に、アーネストも口許をほころばせて頷く。


「いやいや、あの子はもう充分三番がハマるんじゃないのかい?


 男の人って何でできてる?

 男の人って何でできてる?

 ため息と流し目と嘘の涙

 そんなものでできているよ 


 てね?」


「嘘の涙は見たことないな」

「流し目は強烈そうだよ。アブドゥルアジーズも、あの子を欲しがっているくらいだもの」

「流し目も何も、あの子は十やそこらの子どもだったじゃないか」

 苦笑気味にヘンリーは唇を歪めた。


 吉野が自分から望んで始めた事ではないのだ。彼が他者を望んだわけでも――。


「今はその頃以上だ」

 アーネストは真顔に戻り、ローテーブルに置かれた書類をトンと指で弾く。


「最新情報。あの子、アブド大臣を通じてアブドゥルアジーズに破綻したシェール油田を買い漁らせている」

「――価格操作?」

「ご明察」


 一を聞いて十を知るヘンリーの洞察力に舌を巻きながら、アーネストはさらに厳しく表情を引き締める。


「消耗戦だな」

「え?」


 彼の思惑に反して、ヘンリーはクスクスと笑いだしていた。


「わずか数ドルの変動でも、彼らにとっては死活問題なのだろうけどね。採掘量を調整して価格決定権を握ったところで、もう以前のような原油価格の高騰は起こりえないよ。だって、もう知られてしまっているんだからね。十分な量の原油がアメリカ大陸に眠っていること。今まで通りに、彼らの視点を原油に縛りつけておいて、本当の彼の目的はリチウムなんだろう? ヨシノは、リチウム鉱山をボルージャやサウード殿下に買い漁らせて、何がしたいんだろう?」


 原油価格暴落で打撃を受けた南米各国の通貨までが下がり、すでに現社会主義政権は揺らいでいるという。資源価格の高騰のみで国の財政を支えていた国庫は、最後の息の根を止められ破綻寸前だ。


「それを読み解くのがきみの仕事だよ、ヘンリー」


 暖炉の火に照らされ金色に輝くアーネストの瞳に、ヘンリーも表情を引き締めて頷いた。



 男の子って何でできてる? 

 彼の頭は何で占められている?


 夜食のサンドイッチを摘みながら、ヘンリーは思考を巡らせる。


 ニューイヤー・パーティーで会ったジェームズ・テーラーも、いまだ吉野を諦めてはいない。

 自分にできた事といえば、『僕が杜月家から正式に彼を預かっている保護者(ガーディアン)です』と、牽制をかけることくらいだ。たかだかかけだしの一企業のトップにすぎない自分よりも、サウード殿下やあのアブド大臣の方が、テイラーにとっては、まだしも歯応えのある相手に映るだろう――。


 アブドゥルアジーズにしても――。

 アブド大臣の抑止力になればと、こちらが神経を削ぎながら働きかけている間にも、吉野は自分であの腹黒い大臣すら取り込んでいた。


『誰もが吉野を欲しがるんだ』

 飛鳥の言う通り、敵に回せば間違いなく邪魔になるのに、誰もが排除ではなく獲得に回る。一度は銃を向けたあのアブドですら。


 不思議な子だ――。


 ヘンリーは、おもむろに紅茶を飲みくだす。ふわりと香った芳香に心を緩め、思いだしたように視線をあげる。


「あの子の幼少期に関わっていた人間も、もう一度調べ直しておいた方がいいかもしれないね。どんな伏兵がいるか解らない」

「ハーディ・オズボーンは獄中で首をつったんだって? 彼もヨシノの幼少期に絡んでいたテイラーの仲間の一人だったんだろう?」


 アーネストは、そういえば、と思いだして何げなく告げた。知らないはずがないか、と思いながら確認するように目線を向ける。だがヘンリーは唖然とした瞳で、真っ直ぐにアーネストを見つめ返してきた。


「自殺? いや、知らない」

「こっちじゃまだニュースが流れていないのかな? あいつがアレンを誘拐した時は、何のお咎めもなしか、ヨシノも甘いな、って腹も立ったけどね、このニュースで、やっぱりあの子、きっちりと復讐を果たすんだ、て納得しちゃったよ」


 ヘンリーは怪訝な瞳をアーネストに向ける。アレンの事件とオズボーンの死が、なぜ吉野に結びつけられるのに合点がいかなかったのだ。


「どういう事?」

「ほら、オズボーンがスタンレー投資銀行への背任罪で訴えられた事件はさ、例のスイスフラン・ショックの時の損失なんだよ。あの子、彼のポジションを知っていて仕掛けたんじゃないのかな。あの状況なら、こちらのクロス取引はポンドでも円でもよかったんだ。それなのに対ユーロのみでの大勝負だったからね。普通はね、勝てるって判っていても、あそこまではできないよ」


 自分はその瞬間に居合わせたのだ。オズボーンの息の根を止めた瞬間に――。


 あらためてその事実を意識し、アーネストは背筋にぞくりとしたものを感じて肩をすくめた。


「ああいう子を敵に回したくないねぇ」


 サラに任せっきりだったとはいえ、ヘンリーもその時のことはまだ記憶に新しい。確かにアーネストの言う通り、いかに確実な情報があったとしても、普通は膨大な金額を一点に賭けたりはしないものだ。


 ――賭け事ってのはさ、勝負に出ると決めた時にはもう、大概の勝敗はついているものさ。


 そう言って笑う吉野の姿が、ヘンリーの脳裏に鮮やかに蘇っていた。





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