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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
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  煌き8

 彼らが久しぶりに訪れたジャックのパブは、観光客もぐっと少なくなる冬季だというのに二階まで満席だ。いつもなら貸切にしてもらうところを、テーブルを一つ確保して貰えるだけで手いっぱいのようだった。


「ずいぶん流行っているんだね」


 フレデリックは周囲を見回し、嬉しそうに微笑む。

 吉野と付き合うようになってからというもの、ずっとお世話になってきた店なのだ。それに何度か、彼の代わりに店を手伝ったこともある。亡くなった兄がここでバイトをしていた、と後から聴かされた時には、不思議な縁に目頭が熱くなった。


「今年になってから急にだって、ご主人が言っていたよ」

 クリスが顔を寄せて、内緒話をするように声を落とす。

「ここ、ハラルフードを使っているだろ。イスラム教徒のお客さんが増えているんだって」


 そういえば、二階のテーブル席の半分以上がそれっぽい感じだ。本来はレストランよりも一階の酒場が主のこの店だが、酒は出さない二階と入口を分けてからは、サウード達イスラム教徒も利用するようになった。イスラム教徒向けの店の少ないこの街で、彼らにとって貴重な食堂になっているのかもしれない。


 フレデリックは納得したように頷く。


「ヨシノが、欧州でもすごくイスラム教徒が多かったって言っていたよ。これから、こういう店が増えていくのかもしれないね」

「僕はなんだか嫌だな。僕たちの居場所が奪われていくみたいで」

 小声で言いながら、クリスは不満そうに唇を尖らせる。



 フレデリックは曖昧な笑みを浮かべてそんな彼をやりすごし、吉野とのやり取りを思い返していた。


 初めてこの店を吉野と訪れた頃は、お客さんは疎らで近所のお爺さんがお喋りに来ているだけだった。それがいつの間にか、エリオット校生が増えて、観光客が増えて――。


 俺たちが、ここの常連さんたちの居場所を奪ったんだ、と、気づいた吉野は店の改装を進言して、エリオット校生(じぶんたち)と彼らの場所を棲み分けた。そうやって、以前のようなジャックの店に戻したのだ。日中は観光客が多いけれど、夜はまた、この街の人たちの集会所だ。


 吉野がそう望んだから。

 ここはジャックの店で、皆、そうあることを望んでいる、と。


 ――俺、馬鹿だからさ、何も解っちゃいなかったんだ。


 あの時は、そう言った彼の言葉の意味がフレデリックには解らなかったのだ。


 フレデリックは思い出に浸りながら、感慨深げに目を細める。




 突然、クリスがぴょんと頭を起こし、大声を上げて手を振った。フレデリックも我に返って彼の視線の先を追った。


「ここだよ!」


 遅れてきたアレンと、彼のボディーガードが入口で立ち止まっている。


「遅かったね」

「下でご主人にポスターを渡していたんだ。ちょっと話し込んでしまって」

 アレンは申し訳なさそうに微笑んだ。

「ポスターって、例の?」

 フレデリックの心配そうな視線に、アレンはにこやかな笑みを返す。

「見本市で使ったポスターを、デヴィッド卿に無理を言って特別に頂いてきたんだよ。それにTS映像看板のポスター版も。一般では出回っていないすごいレア物なんだって!」

 どこかしら自慢げなその様子に安堵しながらも、フレデリックは、アレンに自分の杞憂を悟られないように、慎重に言葉を探す。

「睡蓮池のは?」

「うん。それも一緒に。計三枚。壁が埋まっちゃうね。だから掛け替えるか、二階にも飾るか、ご主人も迷ってらした」

「きっとまたお客さんが増えるね!」

 瞳をくりくりとさせる誇らしげなクリスとは違い、フレデリックは微かに眉根を寄せていた。



 店舗に行かなければ見られなかったアレンの立体映像が、TSネクストの増産が発表されてからポスターになり、雑誌や一部駅構内での壁面広告で見掛けるようになった。そのポスターが校内で問題になっていることを、アレンは知らない。

 水に濡れて張りついたシャツに透ける素肌と、物思いに耽るその表情が、扇情的すぎるのだという。そんな内容の話を、フレデリックはとてもじゃないが、アレンに伝えることはできなかった。



 額に手を当てこめかみを揉むふりをしながら、目の前に座る彼を、フレデリックはそっと盗み見る。


 彼は、自分がどんな目で見られているのか解っているのだろうか? 解っていて気にしないのか、それともまったく、自覚がないのか。そんなはずがないではないか。あれだけ酷い目にあっているのだから――。


 吉野は知っているのだろうか? 彼はどう思っているのだろう? 彼なら――。


 フレデリックは、同じ寮内にいながら、なかなか捉まえることのできない吉野を思い、嘆息する。たまに会えたところで、忙しなく働いている彼を邪魔することは気が引けて、きっと何も聞けないままで終わるのだが。





 頭を悩ませながら、運ばれてきたカレーを無意識に口に運んでいたフレデリックは、ふと視線を感じて面をあげた。「カレー、食べるようになったんだね」と、今さら驚いてアレンに目を留める。


「ヨシノのカレーは甘口だからね。これ、僕たちのためのカレーだよ。でもね、彼が家で作る本場のインドカレーはすごいんだよ。もう、辛くて、辛くて! 一口貰ったんだけれど、涙がボロボロ出ちゃったよ。それをね、兄やサラは平気な顔で食べるんだよ! 美味しいって。びっくりしちゃったよ」


 そう尋ねられるのを待っていたかのように喋りだし、生き生きと瞳を輝かせているアレンを見ているだけで嬉しくなる。フレデリックも自然に顔がほころんでいる。


「僕、それちょっと食べてみたいなぁ。僕はけっこう辛いのも平気だよ!」

「えー! きみもきっと泣かされるよ!」

 羨ましそうにアレンを見つめるクリスに、大袈裟に言い返しているアレンはまるで悪戯っ子だ。


「平気だよ! 僕は泣いたりしない! だって、」

「ガストン家の男だもの!」


 二人、声を揃えて言い、朗らかに声を立てて笑いあっている。



 こんな時間がいつまでも続けばいいのに――。


 フレデリックはつられたように微笑みながら、込みあげてくる不安を無理に押し殺して、そう願わずにはいられなかった。






ハラルフード…イスラム教の戒律によって食べることが許された食べ物のこと

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