煌き7
「セッロ、もう出てきてかまわない」
マルセルは、ベッドルームに続くドアに弱々しい声をかけた。
カチャリ、とドアノブが回る。
不機嫌を丸出しにした双子の弟が、窓に向き合うソファーの背もたれから、横たわるマルセルを覗きこむ。
「手を」
弟は蒼白な兄の額に手を当て熱を測り、包帯の巻かれた手首を持ちあげる。
「ヨシノが処置してくれた。大丈夫。出血も止まっている」
弱弱しい笑みを浮かべて、マルセルは弟の頬に手を当てた。
「そんな顔をするな。宗主にはまだ話していない。彼にもう一度頼んでやるから心配するな」
口をへの字に曲げて黙ったままの、弟の頭を優しく撫でてやる。
どうしてこいつは、こうやって腕を持ちあげていることさえ、僕には苦痛なのだということに、気がつきもしないんだ……。
彼に出会わなければ――。
気遣われる幸福を知ることもなかったのに。
吉野と過ごした数日間の欧州での記憶がマルセルの脳裏を駆けぬける。彼は、本人ですら持て余しているこの理不尽な身体にすぐに気がついた。そのうえで、止めるのでもなく、労わるわけでもなく、ぎりぎりまで付き合ってくれたのだ。
そんな彼を、愚かなこいつが怒らせた。
「廃嫡になんて、させはしない」
マルセルは弟を労わるように言葉をかけた。
「――どうしてお前は、俺のことしか考えないんだ?」
ソファーの背面から表に周り、マルセッロは跪いて兄の胸に頭をのせた。
「お前が寝ているとき、俺がこうやってお前の心臓がちゃんと動いているか何度も確かめに来ていることを、お前は知らない」
「重い。どけろ」
押し殺したような兄の声に、マルセッロは唇を噛んで頭を持ちあげる。
「廃嫡なんてどうだっていい。お前が当主なんだから。俺なんて、ただのダミーにすぎないじゃないか。お前さえいれば、すべて上手くいくんだ。だから、」
「駄目だ」
疲れた顔でマルセルは眉を寄せる。
何度言われても、無理なものは無理なのだ。いい加減、諦めろ。
こいつのこのしつこさが嫌いだ。
馬鹿だから、いつまで経っても解さないのか。
「彼さえいてくれれば、お前が当主でもやっていける。彼なら百年先まで見越して、ルベリーニに磐石な基盤を築いてくれる。頼むから、僕の邪魔をしないでくれ」
マルセルは一息に言い切ると、自分を見つめる弟の頭を片手でぐいと押しやった。
「それに、もう二度と、彼のものに手を出すな。お前の尻拭いはたくさんだ」
「でも、お前は、」
「お前の助けなんて要らない。僕のニケは、僕自身で手に入れる。いや、もう、僕のものだよ。僕は、彼の欲しがっているものを提供できるからね」
マルセルは目を開けていることさえ辛いのか、瞼を閉じたまま小声で告げた。
「セッロ、ベッドに運んで」
マルセッロは兄の身体の下に腕を差しいれ抱き抱えた。軽々と持ちあがるその身体をベッドルームに移し、ダブルサイズのベッドにそっと横たえる。
いつの間に、兄はこんなにも軽くなったのだろうか。
母親にも見分けられない、とそう言われ続けていたのに、今の兄と自分とでは、指一本の太さすら違う。
目の前に横たわる兄のあまりの細さに、マルセッロは目を背けずにはいられなかった。
「休みたい。一人にしてくれ」
囁くようなマルセルの呟きに、マルセッロは幼いころから毎日のように繰り返してきた言葉を、ここでも繰り返した。
「生きてくれ。絶対に死なないでくれ」
だから、こいつは嫌いだ。
いつまでも馬鹿なままで――。
いい加減、諦めろ。
「まだ時じゃない」
朝晩の挨拶のように繰り返してきた言葉を、マルセルもまた繰り返した。
マルセルの耳に、ほっとしたような、聴き慣れた吐息がかすかに届く。やがて、ドアが静かに閉まる。
一気に力が抜けてゆく。
緩やかに波打つ思考の海で、マルセルは漂いながらその流れを追っていた。
吉野に逢わなければ、もっとあがいたかもしれなかった、と。
初めて出逢った、じきに自分に訪れるその時から、目を逸らそうとしなかった少年――。彼は、今できることを、自分がいなくなった後のために時を使うことを教えてくれた。
子どものように無邪気に笑いながら、深淵を見つめる鳶色の瞳。
僕のニケは、地獄にすら軽々と降り立つ。
勝利は天にのみあるのではないのだ。
セッロ、ただ泣いて、生きろ、と懇願するお前の泣き言はもうたくさんだ。
待っていろ。僕は、僕の時を彼に託して、お前の未来を買いとってやる。
その時が来るまでに――。
霧散する言葉と意識を手放して、やがてマルセルは静かな落ち着いた寝息を立て始めた。




