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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
496/805

  煌き5

「相変わらず少食だな、お前は」

 紅茶とサンドイッチだけで昼食を済ませようとしている飛鳥を、ロレンツォは眉をしかめて軽く睨む。

「朝が遅かったんだ」

 飛鳥は苦笑いしてひょいと肩をすくめる。


 飛鳥は今ロンドンに来ている。いつも待ち合わせに使っているホテルのティーラウンジで、久しぶりにロレンツォに会っている。大学を卒業してからは欧州中を飛び回っている彼に最後に会ったのは、夏期休暇に入ったばかりの頃だったろうか? 電話でたまに話はするものの、こうして向かい合う友人の変わらなさに、たとえそれが小言であっても、飛鳥はほんわりと安堵して自然に口許がほころんでいた。



「きみの食べっぷりを見てるとね、いつも吉野と気が合うだろうな、って思うんだ」

 ずらりと並んだ皿にちらりと目をやり、飛鳥はそう言って笑いながら息を漏らす。本当に吉野といい勝負だ。次々と空になっていく皿の数々。吸い込まれるように料理が消えていく。その速さまでが似ている。

 だが、ロレンツォは、その名前にぴくりと眉尻をあげ、手を止めて飛鳥を見つめた。


「お前の弟な、」

 言いかけて、眉間に深く皺を寄せる。

「ん?」

「元気か?」

「元気だよ。じきにここに来るよ。Aレベル試験もぶじ終えたみたいだし。アレンと一緒だよ。きみ、アレンには――、あ、フェレンツェでみんなお世話になったんだったよね。その節はありがとう」


 吉野とアレンの欧州旅行では、美術の好きなデヴィッドも加わってロレンツォの実家に世話になったことを思いだし、飛鳥は慌ててお礼を言った。そういえば観光中に二人は事故に遭い、途中で予定を切りあげて英国に戻ったのだ。そのときも、スイスにいた飛鳥がよけいな心配をしないようにと、ロレンツォは丁寧な謝罪と経過を知らせてくれたのだった。


 なんの含みもない飛鳥のお礼の言葉と笑顔に、ロレンツォは苦笑して首を振る。


 飛鳥はスペアシステムを知らないのだ。欧州当主は、ロレンツォと同じようにそれぞれが仕えるべき主君と契約するもの、と思っている。「ルベリーニの契約」は、一般人にはその概要すら知ることはできない。巷では色んな尾ひれがつき、歪曲されて伝わっているだけなのだ。

 不幸中の幸いとでもいえるのだろうか。ヘンリーのスペアとして何に代えても守るべきアレンの身を危険に晒してしまった失態を、飛鳥は怒るでもなく、不幸な事故としてロレンツォを慰めてまでくれたのだ。



「何時だ、弟が来るのは?」

「三時だよ。まだ三十分ある」

「マルセル、俺の従兄弟を呼んでもいいか? お前の弟に会いたがっているんだ。この上に泊まっているのだが」

 不思議そうな色を浮かべた飛鳥に、ロレンツォは朗らかに言葉を繋いだ。

「フェレンツェでのパーティーで意気投合したらしい」

「ああ、あいつは僕と違って人見知りしないから――」


 知らない間にどんどん広がっている吉野の交友関係に、飛鳥は毎度驚かされる。自分の知らない名前を聞くと、つい、カジノでも行ったんじゃ、と思い浮かべてしまうのはもう止めにしなければ、などと飛鳥は苦笑いしして、のんびりと金色に揺れるティーカップを口に運ぶ。





「おい、出てきて大丈夫なのか?」


 静かにテーブルに歩み寄った、黒髪のほっそりとした青年を見上げるなり、吉野は心配そうに眉をしかめた。隣に座るアレンが同時に身体を強ばらせたような気がして、飛鳥はロレンツォの従兄弟だというその青年を慎重に見上げる。


「お前、また痩せたな」

 立ちあがり、吉野は相手の顔にかかる艶やかな漆黒の巻き毛を無造作にかきあげる。

「きみは変わりない?」

 彼は嬉しそうに目を細めて微笑み、親しげに吉野の肩を抱いて頬にキスをする。次いで着席しているアレンに掌を上に向けて差し伸べる。アレンは機械仕掛けの人形のようにぎこちなく無表情のまま、自分の手をその上に重ねる。掠るようなキスが落ちる。


「王侯貴族の挨拶?」

 ロレンツォに顔を寄せて小声で訊ねた飛鳥に、クスリと揶揄うような笑みが返った。

「そうだよ。こいつは、マルセッロ・ボルージャ・デ・ルベリーニ公爵」

 ロレンツォの代わりに吉野が答えた。

「よろしく、ヨシノのお兄さん」

 普通に差しだされた右手を、飛鳥はほっとしたように握りしめた。



 青白い顔をした弱々しい雰囲気の青年、という第一印象は、すぐに快活で明朗なお喋りで打ち消された。傍らの従兄弟と同じように、彼もまた身振り手振り交えてよく喋った。


 子どもの頃は父方の実家でもあるド・パルデュ家で育ったので、皆、フランス風にマルセルと呼ぶ。そう呼んで下さい、と彼の自己紹介は締め括られる。


 こうして並んでいると確かにロレンツォと似たところがあり、従兄弟というのも頷ける。この黒髪と黒曜石の瞳は、まるで兄弟だ。それに、どこか宗教画を思わせる古典的な容貌も――。


 ドキドキするような神秘的な彼の雰囲気に飛鳥が見とれていると、マルセルがにっこりと笑いかけてきた。


「あなたは、ヨシノとは反対なのですね」

「え?」

「ヨシノは外へ外へと向かう放射線のようなのに、あなたは内側に引っ張る重力のようだ」

「僕はこいつのように、周りにエネルギーを与えることはできないからかな」

 まるで恥じてでもいるかのような曖昧な飛鳥の笑みを、マルセルは口許に微笑を湛えたまま、観察でもしているような鋭い目つきで見つめ返している。

「惹きつけられてやまないところは、とてもよく似てる」


「マルセル」

 いきなり吉野がマルセルの腕を掴んで顔をしかめる。手首にはめたリストバンドに薄らと血が滲んでいる。その先のしなやかな指先は、血の気が引いて青白く透き通るようだ。吉野はロレンツォを振り返った。確認するまでもなく、彼も渋い顔をして頷く。

「部屋に送ってくる」


 立ちあがりしな、吉野はロレンツォの耳許で囁いた。

「柱の影、絡んできたら上手くあしらっておいてくれ。飛鳥とこいつのこと、頼んだぞ」

 ちらりと向けられた吉野の視線の先、アラブ人らしい浅黒い肌の男たちにロレンツォもさりげなく目を配ると、返事代わりに軽く吉野の腕を握って送りだした。



「すまない。あいつ、マルセルは怪我をしているんだ。その傷口が開いたらしい」

 深いため息とともに垣間見せたロレンツォの深い憂いに、飛鳥は心配そうに瞳を曇らせた。

「吉野は彼とずいぶん親しいみたいだね。あいつ、ああ見えてすごく心配性なんだよ」


「知っています」

 俯いたまま口の中で呟かれたアレンの言葉は、その場にいるどちらにも届かなかった。もちろん、すでに姿の見えない吉野にも――。






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