条件9
「ここに来る奴らは、みんなお前より身分は上だ。エリオットの創立祭で擦り寄ってくる雑魚の保護者連中とは違うからさ、お前、絶対に自分から先に手を差しだすなよ」
パーティー会場になるロンドンのホテルへと向かう車中で、アレンは吉野から念を押して注意を受けている。道中、吉野は終始ピリピリしていて、事細かくアラブ式のマナーをアレンに教えているのだ。アレンは頷きながら、「お祖父さまのパーティーには、アラブの方も多くいらしていたから大丈夫だと思う」と、いつになく真剣な瞳で吉野を見つめ返す。
「それにお前の方は大丈夫なの? お前が顔を出すとなったら、いくら俺の身元引受人だと説明したって、ラザフォード家次男としてしか見られないぞ」
「言われるまでもないでしょ。きみには申し訳ないけれど、僕はサウード殿下側にはつけないからね。継承者争いに関して僕はあくまで中立。あの腐れ大臣は嫌いだけれど、僕には関係ない問題だからね」
「それでいい。サウードがダチだからって、ラザフォードやヘンリーまで巻き込む気はないんだ」
友人に会いにいく――。
ただそれだけのことが政治的な思惑に繋がり、駆け引きの材料にされ、いつどこで家族に迷惑をかける要因となるか判らないのだ。
そんな現実を突きつけられ、アレンは改めて身を固くして不安そうに吉野の横顔を見つめる。表情のない左側の頬を……。
「まぁ、そんなに緊張するなよ。デヴィもいてくれるんだからさ」
視線を感じたのか、吉野がくるりと振り返りアレンの顔を覗き込む。そして、それまでのピリピリとした面持ちを改めて、彼を安心させるかのように、にかっと笑った。
『こいつは俺のものだ。指一本触れるなよ』
抱擁と頬をつけ合う挨拶を終えて、開口一番アラビア語で告げられた吉野のアレンを紹介する言葉に、アブドは笑いを噛み殺しながら差しだしかけた右手の軌道を変えた。左胸に当てられたその優雅な所作を、アレンも吉野に言われた通りにそのまま真似て、握手に代える。
「お目にかかれて光栄です」
白のトーブも、その上に羽織った黒のベシュトも、頭部を隠す白い布シュマッグも、会場に溢れる多くのアラブ人とほぼ変わらない衣装なのに、目前に立つ男は、誰の目にも明らかな王者の風格を醸しだしている。
その上、流暢なクイーンズ・イングリッシュで交わされる挨拶と、にこやかで気品に溢れた立ち居振る舞い。
いったいどこが腐れ大臣なのだろう?
と、アレンは青紫の瞳を意外そうに丸めて、アブドを真っ直ぐに見つめる。
だが簡単な挨拶を済ますと、すぐにアブドの興味はアレンから逸れ、吉野とアラビア語での会話が始まる。
アレンとデヴィッドはいつの間にか、入れ替わり立ち替わり、見知らぬ誰かとの挨拶と歓談に囲まれている。そんな中でアレンは顔に笑みを張りつかせて懸命に応えながら、ちらちらとアブドといる吉野を目で追っている。
「毛を逆立てた猫みたいだな」
くっくっと笑うアブドに、吉野は「見るな」と顔をしかめる。
「ご執心だな。あの美貌なら解らぬでもないが」
「あんたのご要望通りにフェイラーを連れてきてやったんだ。これで文句はないだろ? さっさと話を詰めろよ」
「お前はせっかちだな。そうなんでも要件だけで済ますのでは面白くもあるまいに」
アブドは吉野の肩を抱いて頬の傷に指先を滑らせる。吉野は露骨に眉を寄せて身をよじると、正面から見据えてため息を吐いた。
「あんた、本当に馴れ馴れしいな。ツレがブチ切れるからべたべた触るなよ」
アブドの嗤いを含んだ視線の先で、アレンは唇を噛んで俯いているのだ。ちっ、と舌打ちして踵を返した吉野の腕をアブドが掴む。
「これがお前の望みだろう?」
同じ時、アレンにはサウードが歩み寄る。二人は傍らのデヴィッドの許可を得ると、その場を離れてバルコニーへ向かう。
「じきにカウントダウンだ」
ベランダに、或いは大観覧車の見える窓際に寄っていく招待客たちを尻目に、アブドは鷹揚な笑みを浮かべて囁いた。
「部屋に行くか? 話を詰めてやってもいい」
アレンに気を取られているデヴィッドの背中を横目で確認し、吉野はアブドと連れ立ってパーティー会場を抜けだした。
「来てくれてありがとう」
微笑むサウードに、アレンははにかんだ笑みを浮かべて頷いた。
「僕でお役に立てるのなら」
「ヨシノに何か言われた?」
「うん。僕がここに来ることが、きみと米国フェイラー社の友好関係の証明になるからって」
二十六日の原油先物の暴落から、原油市場だけでなく株式や為替市場までが、いろめきたっている状況が続いていた。
事前に打ち合わせていたとはいえ、サウードの祖国内部からの反発はやはり強かった。吉野の言う通りに、本当に金融投資で原油下落分の損失が埋めれるかどうかも、誰もが、そしてサウード本人でさえ半信半疑だった。国の基幹産業である石油の値段を決める基準となる先物価格の今回の暴落は、とっくに国家の許容限度を超えているのだ。
彼の考えは深淵すぎて、とても僕たちに理解できるものじゃない。
それほどまでに、彼は遥か未来を見通しているのだから――。
周囲で一斉に始まったカウントダウン。
漆黒の上空に、一斉に何発もの華やかな光の花々が咲き誇る。
いきなり眠りから覚まされたように、サウードはびくりと痙攣して目を瞠った。
ビッグ・ベンの鐘の音。人々の歓声。連続する花火の火薬音。華やかに夜空を彩る百花繚乱の饗宴を我を忘れて見入っていたサウードは、それまでの漠然とした迷いを振り切り、傍らのアレンに向き合った。
「アレン、お願いだ。ヨシノを、彼を僕に譲ってくれ。僕には、いや、僕の国には、彼がどうしても必要なんだ」
唐突に告げられたその懇願に、アレンは驚いてサウードの真剣な瞳をぽかんと見つめ返す。
「……サウード、ヨシノはものじゃないよ。譲るとか、譲らないとか、そんな存在じゃないだろ」
「彼はきみを選んだんだ。きみが彼の仕える唯一の王様だ」
「どういうこと?」
怪訝そうに訊き返したアレンに、サウードは眉を寄せ物悲しげに苦笑を漏らした。
「無垢で無知な彼の天使――。きみは何をも望まないのに、全てを掌中に収めるんだね」
次々と打ちあげられる花火に照らされて輝くアレンの青白い頬にそっと指先で触れると、サウードはその面を、冷たく研ぎ澄まされた冬の夜空に向けた。
舞い踊る火花を食入いるように眺める彼は、アレンが再度問い質しても、もう吉野の話題に触れることはなかった。




