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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
483/805

条件

 吉野はプールの底に足をつけ、両手を水面から出して肩より上に挙げた。


「いきなり銃弾撃ち込むのは勘弁な。俺、遺体が汚くなるのは嫌なんだ。家族がさ、辛いだろ?」

「ヨシノ!」


 相手を知ってか知らずか、皮肉げに片唇を跳ねあげて、脅かされてでもいるようにホールドアップしている吉野を、サウードは嗜めるように呼んだ。


「ははは、お前は面白いことを言うね」

 だがそんな彼の懸念に反して、アブド・H・アル=マルズークは吉野の無礼を声を立てて笑いとばした。

「私がテロリストにでも見えるのか? イスラム社会への哀しい誤解だな。いやそれ以前に、この家にいるお前からそんな言葉を聞くなんて、遺憾だな」


 ゆったりとした動作、鷹揚な微笑み。上品な顔だちはどことなくサウードに似ている。だがその黒檀の瞳は十も年下の従兄弟よりもよほど鋭く、精悍な顔立ちは彫刻のように整っている。年齢相応の威厳と風格は、いかにも王族と言ったところか。

 

 値踏みするかのように吉野はアブドを見下ろし、にやりと笑う。


「それは失礼。アブド副皇太子殿下」


 ガラス壁に片手をかけ、ザバリと飛沫(しぶき)をあげて吉野はプールから柔らかなタイルマットに降りたった。壁際の棚に畳んでおいてあるバスタオルをバサッと被る。髪から滴る雫を大雑把に拭きながら、アブドを振り返る。


「きみの言う通りだな。まるで豹のような身のこなしだ」


 アブドは優雅に佇んだまま、吉野へ向けていた興味深く観察めいた視線をサウードに移して、にこやかに微笑んだ。


「殿下、俺の服から足をどけて下さいますか?」

「ヨシノ、替りをすぐに用意させる」


 あ、と息を呑み、サウードは先ほどからアブドの背後の階段の降り口で、じっとトレイを持ったまま立ち尽くしているイスハークに目線で指示をだす。


「待てよ、イスハーク! 飯、置いてってくれ! 腹減ってるんだ!」


 吉野は素早く反転した背中に慌てて声をかけた。腰にバスタオルを手早く巻きつけると入り口から動こうとしないアブドを避けて、イスハークに歩み寄る。

 ちらとその様子を眺め、アブドはやっと踏みつけているタキシードのジャケットからゆっくりと足をどけ、その身体の位置を変えた。


 イスハークからトレイを受け取ると、吉野はちょっと目を眇めて顎をしゃくって床を示す。


「着替えは要らない。ここにあるからさ。それより、こんなんじゃ足りやしないよ。もっと食い物を持ってきてくれ。殿下にコーヒーも」


 判断を仰ぐイスハークの視線に、サウードは無表情のまま、早く行くようにと頷く。だが眉を寄せて睨み返した吉野には、「駄目だよ、ヨシノ」とサウードは、同じように眉根を寄せて首を振った。

「そんなもの、きみに着せるわけにはいかない」


 吉野はデッキチェアの向かいにあるサイドテーブルにトレイを置くと、サウードと向かいあい、腰に手を当てて唇を尖らせる。

「俺、ぜんぜん気にしないよ。お前らとは違うんだからさ」


 と、二人の会話を裂くように、豪快な笑い声が閉じられた空間に響いた。階段とのスペースを仕切るガラス壁にもたれているアブドが、片手を顎にあててさも可笑しそうに笑っているのだ。


「お前は、他人が足に敷いた物を身につけて平気なのか?」

 吉野は笑みを浮かべて朗らかに応える。

「俺はあんた達と違って庶民だからさ、踏みつけられるのには慣れてるんだよ。雑草みたいなもんだからな」


「ヨシノ――」


 呟いたサウードには、吉野はそれ以上何も言わなかった。出入り口に放りっぱなしだったタキシードを拾いあげ、バサバサと埃を払って身につけた。それ以降はもう、サウードにもアブドにも目もくれず、黙々と食べ続けていた。



「私は、きみの財政改革案を評価しているんだ」

 しばらくその様子を眺めていたアブドの良く通る声が、今一度吉野に向けられる。

「それはどうも」

「法案を通してやってもいい」

「国防大臣のお墨つきを頂けるとは鬼に金棒だな」

 延々と食べ続けながら適当に相槌を打つだけの吉野に、アブドは呆れたように腕を広げる。


「やれやれ、お前の食事が済むまで私はここで待たせれ、まともな話合いも持てないのか」

「話し合う必要性があるのか? 政府が金を出すか、サウードが個人で金を出すか、俺はどっちだっていいんだよ」


 吉野はもう、イスハークの運んで来た二度目のトレイを片づけにかかっている。


「国の推進プログラムにしたいのなら、そう単純にはいかない。もっと解るように説明してもらえないか」

 アブドは腕組したまま、クスクスと笑っている。


「あれを読んで解らない奴に、何を説明するんだ?」

「ヨシノ!」


 サウードが、もう我慢できないとばかりに間に割って入った。


「アブド殿下、後で僕の方から説明に伺います。貴殿をこれ以上引き止めておくと、下の連中が煩くなる。ここは、どうか――」

「こいつを私のもとへ寄越してくれるか?」

「ここは英国です。僕に彼をどうこうできる権限はありません」

「お前の側近じゃないのか?」

「雇用契約を結んでいるだけです。彼はいつでも破棄できる。貴殿にとっては雑草にすぎなくても、彼は思いがけない場所から、アスファルトすら突き破って出てくる草なのです。彼の意思でしか動きません」


 唇を引き締め静かに見つめ返す年下の従兄弟を、アブドは上から見下ろすように眺めていた。

 だがやがて、「コーヒーくらいかまわないだろう? 下で待っている」と有無を言わせない一言とにこやかな笑みを残し、黒のベシュトを翻して皆の待つ広間に戻っていった。



 その姿が階上に消えてから、吉野はやっと食事の手を休めてサウードに訊ねた。


「何でお前が敬語なんだ? お前の方が身分は上だろう?」

「彼は前国王の息子で、父に次ぐ王位継承者だったんだ。父が王位について、今は仮に、僕が第一王位継承者に指名されているにすぎないよ。王位継承を協議する委員会には、彼を押す者もまだ沢山いるからね」

「ふーん、じゃあ、お前の皇太子の地位も盤石ってわけじゃないんだな」


 吉野は立ちあがると、つい先ほどまでアブドが立っていたガラス壁のはし辺りの板張りの壁に向かって歩きだし、壁面にざっと目を走らせる。


「俺も、身の振り方をいろいろ考えなきゃ、てことだな」


 板目に沿って手を滑らせ、壁を撫でまわす。ふと気がついたように、そこに転がしていた革靴を素足のまま履く。


「――きみにとって、僕がただのチェス盤の駒にすぎなくてもかまわない。きみがゲームに勝てさえするのなら。きみは優しいからね。僕は、きみの創りあげる世界を信じている」

「お前が王様になれなくてもいいってこと?」


 間を置いて、寂しげに微笑み頷いたサウードをちらと見て、吉野はいったんガラス戸を引いて室外に出た。そこで手にしていたボタン状の機械を床に落とし、靴底でガンガンと踏み潰す。


「俺の王様はお前だよ。少なくとも、ライバルに盗聴器を仕掛けるような奴は願い下げだ」


 呆気に取られているサウードに、戻ってきた吉野は唇の端をにっと釣りあげて告げる。


「俺の服さ、いろいろと仕掛けがしてあるんだ。例えば、盗聴盗撮探知センサー付きボタンとかさ。だから勝手に交換されたりしたら、困るんだ。特注品なんだからさ、替えが利かないんだよ」





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