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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
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  憧憬6

 ここで待つように、と指定されたヘンリーの書斎は、深紅に同系色の赤いラインの入った壁に囲まれ、マホガニーの本棚がどっしりと置かれている落ち着いた空間だ。ほどよく温まり、外界と遮断された静寂に包まれる室内では、じっとしていると眠気をもよおしてくる。吉野は大きく欠伸してソファーから立ちあがると、本棚に並ぶ重厚な装丁の背表紙に視線を流し、その中の一冊に手を伸ばした。



「お待たせ」

 約束の時間にいくらか遅れてやってきたヘンリーに、吉野はくるりと身体を返した。

「この蔵書、あんたのなの?」

「意外かい?」

 涼しげに微笑んでいるヘンリーに、ふん、と吉野は鼻で笑って返す。

「人は見かけに寄らないっていうしな」

「うちの蔵書は棚に並んでいるものだけではないよ。聖書の解説書を貸してあげようか? きみの解釈に誤解があるといけないからね」

 ヘンリーは窓際のソファーに腰かけ、にこやかに吉野にも座るように促す。

「なんだ、もうバレたのか。飛鳥が気づく前に消しておこう、って飛んで帰ってきたのに」

 くいっと片唇を跳ねあげながら、吉野はひょいと肩をすくめる。


「それは殊勝な心がけだね。どうせならサブリミナル・メッセージなんて物騒なもの、初めから(つつしん)んでほしかったけどね」

「サラが解析したの? 心配いらないよ。サブリミナルていったって、大した効果なんてないからさ。だいたい今の英国にどれだけクリスチャンがいるか、判ったもんじゃないだろ。ちょっとエリオットの奴らに牽制かけてみただけだよ」


 嫌味を効かしたヘンリーの叱責にも、吉野はとりたてて悪びれた様子も見せない。普段と変わらず軽口を叩いて言い訳する。


「そう? エリオットの生徒には効果あるだろう、と僕は思うけれどね。強制ではないにしろ、生徒の多くが英国国教会の礼拝に参列するし、一通りの宗教教育も受けている」

「でも、あんたには効かなかっただろ? 信じてないもんな、神なんて」


 揶揄うような吉野の目元に、ヘンリーはふわりと柔らかい笑みを返した。


「確かに。(よこしま)な想いを抱くと、天使を包む金の光が硫黄と金色(こんじき)の火炎となって燃えあがり自らを焼き尽くす。そんな映像の悪夢に苛まれることはなかったね」

「見えたところで、それがどうした、ってか!」


 腹を抱えて笑う吉野を見つめて、ヘンリーは呆れたような息をついた。


「アスカには内緒にしておきたかったのだけど、彼から叱ってもらう方が良いのかな?」


 口の中でなお含み笑いながら、吉野は目を細めて首を横に振る。

「言わない。あんたは言わないよ、飛鳥には」


 そんな彼のふてぶてしい様子を鷹揚に眺めながら、ヘンリーは苦笑を湛えて続ける。


「そんなにアレンが心配?」

「してないよ、ちっとも」

 吉野の瞳が、また意地悪く輝く。

「じゃあ、なぜ?」

「飛鳥が見本市で試した手法がさ、英国でどの程度使えるか、俺も試してみたかっただけだよ」


 穏やかな微笑を口許に貼りつかせたまま、ヘンリーはその瞳の色調を変え、目の前に座る飛鳥の弟を睨めつける。


「そう――。そっちも解析済みってわけだね」

「な? あんたは飛鳥には言わない。サブリミナル刺激を用いた飛鳥の映像で自殺者が出たなんて、飛鳥に言えるはずがない」


 口許の笑みすら消して、ヘンリーは吉野を睨めつける。


「飛鳥はさ、宗教の怖さを知らないんだよ。殺し屋が一般人以上に信心深いってこともね。人をいっぱい殺しながらさ、自分の罪だけは目溢しして下さい、って祈るスナイパーの心理なんて、飛鳥には判らない。だからさ、あんたと俺だけが口を噤んでいればいいんだよ」


 暗にパリ見本市講演会場で自身の頭を撃ち抜いて死んでいたSPの謎の死因が、罪を問い、悔い改めを求める飛鳥の映像のせいだと指摘され、ヘンリーはぎりっと奥歯を噛みしめた。

 その仮説は、ヘンリーとて立てていたのだ。それ以外に考えようがないのだから。だが認める訳にはいかなかったのだ。飛鳥のために――。


「それは、きみが映像にサブリミナル刺激を加えてもいい、という言い訳にはならないよ」


 ヘンリーは冷ややかな口調で応えた。


「もうしないよ。あれはさ、エリオットにっていうよりも、エリオット内のボルージャ一派に枷をつけておきたかっただけだからさ」

「それが事実だと信じられるまで、きみに飛鳥の映像は触らせられないな」

「かまわないよ。今回みたいなアクシデントはそうあるもんじゃない。大抵はサラの作った自動管理システムで凌げるはずだもの」


 吉野は少し寂しげに唇の片端を跳ねあげた。


「俺、もう映像の仕事は手伝わない。飛鳥はもう俺がいなくても十分やっていけるだろ? あんたと、サラがいるんだからさ」


「きみは――」


 わざと僕を怒らせようとしているのか?


 その言葉を口にすることで彼の術中に嵌るような気がして、ヘンリーは静かに開きかけた口を閉じ、吉野を哀れむように首を傾げた。


「アスカが寂しがる」

「あんたから上手く言っておいて」


 吉野の方も、仕方がないさ、とばかりに肩をすくめてみせている。



「それでさ、昨日、ロニーに会ったんだろ? 南米の話、聞いてくれた?」


 吉野は気持ちを切り替えるためにか、明るく弾むような口調で話題を変えた。




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