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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
479/805

  憧憬5

「急にルベリーニに逢うことになってね。長くはかからないから、ここで待っていてくれる?」と申し訳なさそうに告げて、ヘンリーはナイツブリッジのアパートメントでいったん車を止めた。

 アレンは泣き腫らした顔のままで帰宅することなく一息つけることに安堵し、サラは滅多に来ることのないこの場所を緊張の面持ちで見回している。





 やがてとっぷりと日が暮れてから、三人はケンブリッジの館に帰りついた。予定よりもかなり遅くなってしまっている。


「お帰り! 吉野も戻ってるよ!」

 ぐったりと疲れた様子で玄関を潜る三人を、飛鳥の弾んだ声と嬉しそうな瞳が迎える。

「それは嬉しいね」

 にこやかに応えるヘンリーを尻目に、アレンはうずうずと吉野の姿を辺りに探している。

「えっと、部屋にいなかったら庭かな? 池の様子を気にしてたから、」

 言い終わらない内にアレンはもう、それぞれの個室のある二階へ駆けだしている。


 その背中をにこにこと見送った飛鳥は、彼の姿が見えなくなったとたんに、語調も表情もがらりと変えて、「ヘンリー、TS看板の件なんだけどね、」とすぐさま仕事の話をきりだして、身振り手振りを交えながら帰ってきたばかりの二人をコンサバトリーに(いざな)う。





 ロンドンからの車中では、しんしんと空から落ちていた雪もすでに止み、頭上は紺青の闇に包まれている。

 きゅっ、きゅっ、と雪を踏みしめて進むごと、足下のセンサーライトに、ぽん、ぽん、と明かりが灯る。小広場から緩やかな坂道を上がりきったところで、アレンは、ふわりと笑みを零す。

 小径に沿って林立するゴールドクレストの一本一本に、夜空の星を撒いたようなイルミネーションが、囁かな光を放っているのだ。


 クリスマスツリーの木立――。


 浮き立つ心のまま、歩を進める。灯りの消えた温室も念のために覗き、誰もいないのを確認する。さらに急ぎ進んでいくと、木立の切れ間に池が見えてくる。


 鏡となった水面は、ところどころに浮かんでいる水連の葉の間に、雪を被り白く輝く木立と常闇を映しながら、微かに揺らいでいる。だが外灯に照らされた緑色のアーチ橋には、目当ての人はいない。 

 アレンはがっかりして橋の中央に立ちつくし、欄干に積もる雪を払い落として池の中を覗き込む。黒く沈む陰影の自分はあまりにも朧げで、形をなして見ることは叶わない。急に、その水面から漂いまといつく凍りつくような冷気を肌に自覚し、アレンはぶるりと身を震わせた。ため息を一つついて、またぞろ足を進ませる。若干、諦めてしまったように、のろのろと。


 すれ違ったのだろうか。

 反対側から、戻ってしまったのかもしれない――。


 もう木立に輝くイルミネーションに目をやることもなく、アレンは俯いたまま先を急いだ。

 林の終わり、高台から見おろせる蜂蜜色の館は、温もりのある灯りに包まれている。煌々とした光の溢れるコンサバトリーでは、床に胡座をかいて座る飛鳥が、サラ、そしてヘンリーと向き合って真剣に何か話し合っているようだ。


「おい!」


 暗闇からいきなり声をかけられてびくりと跳ねあがったアレンは、慌てて辺りを見回した。

 雪景色に溶けこんでいるような六角形の屋根の下、大理石の円柱の陰に置かれたベンチの背に腕をかけて、吉野が手を振っているではないか。


「寒がりのお前がこんな夜中に散歩か? 風邪ひくぞ!」

 薄闇の中でそう言って目を細めた吉野の方が、寒そうに声が震えている。小径を外れ東屋に足を向けると、とたんに足下のセンサーライトが消えた。


 雲の切れ間から覗く弓のような半月に、藍色の雪原を鈍く輝く。


 雪を蹴散らし、吉野の横にすとんと腰をおろすと、アレンはふわりと嬉しそうに微笑んだ。


「父に会ってきたんだ」

「聞いたよ」

 吉野も目を細めてにっと笑う。

「良かったな、親父さんに会えて」

「うん。想像していた以上に、素晴らしい方だった」


 思いだすだけでじんわりと涙が湧いてきそうになって、アレンは振りきるように首を振った。もう吉野の前では泣かない。そう決めたのだ。だから唇を引き結び、心を落ち着けてひと呼吸置いてから、とつとつと話し始めた。


 誰よりも、何よりも一番に、吉野に伝えたかったのだ。お礼を言いたかったのだ。「リチャードはお前の父親だ」と言ってくれた吉野に――。

 不義の子を見つめる父の眼がどれほど慈悲深く、愛情に溢れた瞳であったか……。そして、会いたい想いと同じくらい、否定される恐怖に怯えていた自分の心を優しく包み、涙を払ってくれたことを。


 吉野は優しげに微笑んで、アレンの話にじっと耳を傾けてくれた。

 高揚する想いをすっかり吐きだして、やっと我に返ってアレンは穏やかに佇む吉野の視線の先を追った。相槌を打ってくれながら、ふわりと視線を漂わせた、寒さに身を縮ませながら、それでも微笑んで見つめている彼を――。


 急に黙りこみ、目を見開いてじっと自分を見つめるアレンに、吉野はすっと手を伸ばした。


「目が腫れてる。いっぱい泣いたんだろ?」

 いつものように頭を撫でようとした掌を、思い返してきゅっと握ると、吉野は自分に向けられたセレストブルーのすぐ下の頬を擦る。アレンの肌に触れたその指は、凍りつきそうに冷たかった。


「きみの手、冷え切っている」

「うん。ずっとここにいたからな」

 立ちあがり、吉野はコートのポケットに手を突っ込んだ。

「何をしていたの?」

「見てたんだ、飛鳥を。すごく幸せそうだな、て。――俺、本当に感謝してるんだ。TSの第一弾がさ、なんでタブレット、通信機器だったか知ってるか?」

「え……?」

「俺、ガン・エデン社に対抗するためだって、ずっと思ってた」

「違うの?」


 アレンは、何年か前に寮長の部屋で吉野と一緒に見たデモ映像を思い返し、首を傾げた。


「リチャードのためだったんだよ。上手く身体が動かせなくても、設定した通りの適切な距離に画面が現れて音声認識で操作できる。音は鼓膜に直接響く。小さな声でもちゃんと拾って適切に反応する。障害があっても、使いこなせるんだ。ヘンリーは、父親(リチャード)のためにあれの開発をしてたんだよ。TSがそんなふうに作られたって知って、嬉しかったよ。俺、ヘンリー(こいつ)を信じられるって思えた」


 今、決心したばかりなのに、アレンの胸には、またもや熱いものが込みあげてきていた。吉野は、震える瞳で彼を凝視するアレンの頭を、今度は遠慮なくわしわしと撫でた。


「また降ってきたぞ。もう戻ろう。風邪ひくぞ」


 吸い込まれそうな漆黒から、また、ちらちらと白いものが落ちてきている。

 柔らかく舞う結晶に手を伸ばすと、吉野は笑って寒そうに肩をすくめた。

 二人は並んで、東屋から温かい灯りの誘う館へと歩きだした。







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