約束9
「駄目だよ、ジェーン。そんなに遠くまで行けないよ。僕の出番が始まってしまう」
石畳に靴音を響かせて、細い裏通りを小走りで進んでいく恋人の腕を取り、クリスは引きとめようと強くひいた。
「彼が待っているの。急いで、クリス」
ジェーンはきつい視線でクリスを睨めつけ、ますます歩調を速めていく。
「嫌だ。僕は行かない。ステージに穴を開けるわけにはいかないんだ」
クリスはとうとう足を止めた。
「私の頼みを聞いてくれないの?」
上目遣いに軽く睨んだジェーンを真っ直ぐに見つめ、クリスは首を横に振る。
「ごめん。でも無理なことは無理だよ。僕だけの問題じゃないんだから」
「それは困ったね。ちゃんと言う通りにしてくれなくちゃ」
いつの間にか周りを取り囲んでいる黒づくめのスーツの男たちに、クリスはすーと血の気を失いながらも、彼女を背後に隠し、ぎっと歯を食い縛って、せせら笑う相手を睨めつけた。
「はい。――ヨシノ!」
いきなり声高に叫んだアレンに、周囲の視線が一斉に集まる。
『アレン、TSを開け。俺、まだ戻れそうにないんだ。タイムスケジュールを送ったからさ、お前がなんとか切り抜けてくれ。クリスはちゃんと連れて帰るからさ』
「ちょっと待って、ヨシノ!」
言いたいことだけ言ってぶつりと切れた通信に、アレンは血の気を失い、放心して空を見つめている。
「ヨシノはなんて?」
思いがけない声が聞こえ、弾かれたように振り返る。
薄暗い舞台袖口に佇んでいてさえ華やかに人目を惹く、この非常時でもいつもと変わらない落ち着いた兄の姿に、アレンの口からはほっと安堵の吐息が漏れていた。なぜここに兄が、という問いよりも先に、縋りつきたい思いで、今しがたの吉野の言葉が突いてでていた。
「タイムスケジュールに合わせて切り抜けろ、と」
「今、どういった状況?」
ヘンリーはちらりと壁時計に目をやると、詳しい説明を促してくいっと首を傾けた。
「シューマンのチェロ協奏曲、――二十五分程度だね。代役はなし、か。吉野もいないからTS映像は止められない。時間通りに流れ始める。出るしかないね。僕がチェロパートをヴァイオリンで弾くよ」
「無理です! 今さら、合わせられるわけがない!」
すかさずオーケストラ部から声があがる。
「僕がその程度のこともできない、と?」
「……いえ、僕たちには、無理、という意味です――」
「棄権すると?」
ヘンリーの問いに、周囲に集まっていた連中が、互の顔をちらちらと見合わせる。だがじきに皆、黙ったまま俯いてしまった。
「仕方がないね。僕がソロパートだけでも演奏して間を持たすよ」
「曲目を変えてもいいなら――。メンデルスゾーンなら伴奏できます。あなたがヴァイオリンを弾いて下さるのでしたら」
意を決して、アレンが蒼白な面をあげる。
協奏曲を独奏のみで弾くよりも、オーケストラパートをピアノ伴奏に置き換えたものの方がいくらかマシに思えたのだ。
仮にも学校主催の演奏会の失態を、兄一人に負わせるわけにはいかない、そんな思いからほとばしりでた案だった。
「ヴァイオリン協奏曲? そうだね。五分程度長いけれど、調節できないほどじゃない。誰か、ヴァイオリンを貸してくれる?」
すっと片手をあげ、ヘンリーはこの場にいる一人一人に視線をまわす。
「ソールスベリー、これを使いなさい」
伸ばされたヘンリーの手に、艶やかに光るヴァイオリンが手渡された。
「キャンベル先生――」
「またきみの演奏を聴くことができて嬉しいよ。それにしても、このせっかくの大チャンスに、ソロで挑もうという気概のある奴が一人もいないとはな!」
鋭い眼光でぎろりと睨まれ、オーケストラ部の面々は赤面して唇を引き結ぶしかない。
「ステージを入れ替えなさい」
しわがれた鶴の一声に、生徒がばらばらと駆けだしていく。
十五分の幕間休憩の間に並べられていた椅子が片づけられ、またピアノが引きだされる。アナウンスされる演目と奏者の変更に、客席からはどよめきと歓声があがった。
今日の演奏会のラストを飾る演目の始まりを告げるブザーに、客席はざわざわとさざめき立ち、奏者がステージにあがるのを今か今かと待ち詫びていた。
その頃、フェロー池を取り囲む林の一角では、吉野がポケットに手を突っ込んだまま、呆れたようにため息をついていた。
「ガストン家に手をだすなんて、掟破りにもほどがあるぞ、マルセッロ」
「お前に用はない」
大木の幹にもたれるマルセッロは、腕組みしたまま吉野を睨めつけている。
「じゃあ、誰に用だよ? ――アレンか? それも掟破りだな」
吉野は呆れ続きで声を高める。
「お前、あいつをどうしたいわけ? フェイラーを動かしたいのなら、直接、祖父ちゃんと交渉しろよ。あいつを操ってどうこうなんて、そりゃ無理ってもんだぞ!」
「お前の方こそ馬鹿じゃないのか? あんな美人に手もださないで!」
「ふーん、それであんな手の込んだことを仕組んだんだ?」
狐につままれた面持ちのクリスを置きざりにして、わけの判らない会話が先ほどから飛び交っているのだ。
彼の愛しい恋人は、見たこともない男の傍に寄り添い、その男はサシで吉野と言い争っている。しかも争点は、自分でもジェーンでもなく、アレンらしい。
黒い髪に漆黒の瞳のラテン系を思わせる派手やかな顔立ちに、育ちの良さそうな立ち振るまい。それなのに、どこかだらしなさと性根のいやらしさを感じさせる目前の男を、クリスはまじまじと見つめていた。そして、その男にうっとりと従う自分の恋人を――。
「やらない。お前にあいつはやらない」
吉野は肩を震わせて笑っている。
「叔父様!」
「ほら、来るの遅いぞ、フィリップ!」
吉野の揶揄うような口調に、フィリップはきっと睨めつけるような視線を向ける。だがすぐにマルセッロに意識を切り替え、猫のような濃紺の瞳をすっと細めて冷ややかな笑みを浮かべて見せた。
「あまりやんちゃなさっておられると、宗主に言いつけますよ、叔父様」
口をすぼめ、マルセッロはひょいと肩をすくめる。
「戻るぞ、クリス」
吉野が顎をしゃくっている。
「後はこいつに任せておけばいい」
クリスはちらっとジェーンに目をやり、ぐいと頭を高くあげて踵を返した。
林の入口まで来ると、吉野は草むらに放りだしていた自転車に跨り、クリスに後ろに乗るように促した。
そこからコンサートホールまでの下り坂を一気に駆け抜ける。
「巻き込んでごめんな」
風にかき消されそうな吉野の声が、クリスの耳を掠めていた。
「どうってことないよ!」
せりあがってくる嗚咽を呑み込んで、クリスは大声で答えた。
「僕はガストン家の男だからね! 友人をあんな連中なんかに売ったりしないさ!」
震える声が風に乗り流れてゆく。背中にこつんとつけられたクリスの額からじわりとした熱を感じ、吉野は「ありがとな」と呟いた。




