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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第一章
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  カレッジ・ホール8

「探したぞ。腕を見せろ」

 エドワードは、池のそばの楡の木にもたれて座るヘンリーの背中に声をかけた。

「心配ないよ、ちゃんと加減はしている」

「見せろ」と彼の横に膝をついて左腕を引っ張る。

「痛いよ、エド」

 ヘンリーは小さく笑って呟いた。彼の上衣の袖をぬき、シャツの袖をまくり上げる。包帯の巻かれた腕が痛々しい。エドワードは顔をしかめてヘンリーを睨めつけた。


「なんだってこんな馬鹿な真似を……」

「ちょっとしたパフォーマンスさ。この学校ともお別れだしね」


 ヘンリーは袖を直しながら、穏やかに微笑んで言った。あまりの衝撃に、エドワードは言葉が出なかった。



「準備が整ったんだ。ウイスタンに転校する」

「試験はどうするんだ?」

 声を絞り出すようにして、エドワードはようやく口を開いた。

「Aレベルはとっくに終わってるよ。きみみたいに遊んでいたわけじゃないからね」


 ヘンリーはごろりと寝ころがり、エドワードの膝に頭をのせる。


「これからの一年は好きな事をするさ」

「ここじゃダメなのか?」

「どこに所属するかで一生が決まる。きみが言ったんだ。エリオットを出て、オックスフォードに入学し、Dクラブに入る。それがきみたちの理想だ。罪と恥で互いを縛りあい、権力の椅子をほかに掠め取られないように見張りあう。それがエリオットの伝統だ」


 ヘンリーは、生い茂る楡の木々の間から、晴れ渡る空にぽっかりと流れる雲を眺めながらのんびりと言葉を続けた。


「時間が同じ速さで流れている場所はないんだよ、エド。エリオットは、五百年以上同じことを繰り返し、今の伝統を作り上げた。これからの五百年も、それが変わらず維持されていくと信じて疑わない。ウイスタンは、金にあかせて世界中から優秀な頭脳を集めている。奨学制度という形でね。僕は、アンティークの椅子よりも、生きた頭脳が欲しいんだ」


 エドワードは厳しい表情を崩さず、黙ってヘンリーの話を聞いていた。


「僕が、なぜ合気道を習わされていたかわかるかい?」

「好きでやっていたんじゃないのか」


 エドワードは、押し殺すような声で答えた。ヘンリーは、薄く笑って彼の目を見つめた。


「エリオットに入学したら、僕がどんな目で見られ、どういう扱いを受けるか、父には判っていたからだよ。それも伝統だからね」


 エドワードは、またもや押し黙るしかなかった。

 池の上を初夏の爽やかな風が渡り、かすかに水面を揺らしている。木漏れ日がさざ波に乱反射し、より一層木々の緑を鮮やかに照らして――。

 眩しさに、彼らは一瞬目を眇めた。


「エリオットは、お前にとって苦痛でしかなかったのか?」

 エドワードはぽつりと尋ねた。

「この場所は好きだよ」

 ヘンリーは目を閉じて囁くように言った。

「マナーハウスの庭にある池に似ているんだ。僕が初めてサラに会った場所だ」



 ヘンリーから直接妹の話を聞くのは初めてだった。アーネストからは、断片的には聞いてはいたのだが。


 アメリカにいる妹弟とは別に、5歳下の庶子の妹がいるということ。彼女をマナーハウスに引き取ったということ。どうやら共感覚の持ち主らしいということ。その妹をヘンリーは溺愛しているということ。そして、その妹が来てからヘンリーは、劇的に変わったという事実。

 エリオットに入学してみると、ヘンリーはプレップ・スクールではトップだったエドワードを楽々と追い抜いて、キングススカラーになっていた。彼に一言も告げることなく。


 そして今度は、いきなり「転校する」だ。


 昔は、俺がこいつの面倒をみていたのに! 算数の苦手だった彼に、ずっと教えてやっていたのだ……。


 エドワードは心も感覚も、思考さえも彼の変化についていけず、混乱するばかりだった。



「何が、お前を変えたんだ?」

「サラが僕に初めてねだったのは、『純粋数学要覧』という本だった。きみ、知っているかい?」

 エドワードはしかめっ面のまま首を横に振った。

「十九世紀のケンブリッジ大学卒業試験(トライポス)用数学公式集だよ。サラが6歳の時のことだ。僕らの目標は、彼女の気晴らしのおもちゃと同等ってことさ」


 ヘンリーは、一息置いて自嘲的に笑った。


「僕はそれまで、疑ったことすらなかったんだ。僕たちは、神に愛され選ばれた特権階級なのだと。青い血に生まれたことを誇りに思っていた。こんなちっぽけな胡桃の中の世界だなんて思いもせずにね。でも今の僕はサラの描く未来が見たい。青い血に縛られた無限ループから抜け出したい。この胡桃の中の小さな王国に我慢できなくなった時、僕はここに来て、空を見上げていた。この殻の外には、僕には思い描くことさえできなかった広い世界がある。サラの教えてくれた世界の片鱗を、僕は自らの手で掴み取りたいんだ」


 ヘンリーは空に向かって片手を伸ばした。

 そして、優しく目を細めて微笑みながら、その手をエドワードの頬に当てた。


「この場所と、きみとこうして過ごす時間が、僕は本当に好きだったよ」







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