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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
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  約束6

 先ほどからずっとコンサバトリーのガラス天井を睨みつけたままの飛鳥を、ヘンリーはティーカップを片手に鑑賞するかのように眺めていた。

 だが、あまりにも延々と続く沈黙にもとうとう飽きて諦めたように笑い、飛鳥に声をかけた。


「きみの目に映る世界は、いったいどんなものなのだろうね?」

「え?」

 今初めてそこにヘンリーがいることに気づいたように驚いて、飛鳥は大きな瞳をぱっと向ける。


「ああ、ヘンリー、いたんだ。エリオットからコンサートのプログラムが届いたんだよ」

 飛鳥は膝の上に置かれていた紙を差しだして、恥ずかしそうに微笑んだ。集中していると周りが目に入らなくなる。分ってはいても早々直るものでもない。だからといって、飛鳥にしろ、それでいいと思っているわけではないのだ。


「ふーん。今年はパガニーニじゃないんだね」

 ヘンリーはさっと渡された紙片に目を通す。

「どんな風にしようかな、ってずっと曲を聴いていたんだ」

「面白い選曲だし、楽しみだな」

 ヘンリーの楽しげな声に、飛鳥も手に握りこんでいたTSをコトリとガラステーブルに置き、脱力したように微笑む。

「僕もお茶を、」と言いかけて、目の前にあったティーカップに気づき手を伸ばした飛鳥を制して、ヘンリーはティーポットを持ちあげる。

「もう冷めてしまっている。淹れ直すよ」

「あ、いいよ。これで」

「僕も飲むから」

 ヘンリーの柔和な笑顔に、飛鳥は苦笑で返した。


「きみにお茶を淹れてもらうの、初めてかも」

「そうだったかな?」


「アレンも演奏するんだね」

「そうみたいだね」


「僕も行ってもいいんだよね」

「だめ」


 差しだされたティーカップのハンドルにかけた飛鳥の指の力が抜ける。カチャン、とソーサーに戻るカップから白茶色の紅茶が揺れて溢れる。


「なんでだめなの?」

「ロンドンの本店に行ってほしい」

 ヘンリーは申し訳なさそうに眉根をあげる。

 飛鳥は、あ、と思いだして吐息を漏らす。


 今年は、ロンドン本店で先駆けてTS二周年記念イベントを行う。その後できあがったものをニューヨークへ回して、それから新年明けにラスベガスで――、と鬼のように忙しいのだ。

 そんな時期に重なるエリオットのイベントを引き受けたのは、吉野が手伝ってくれる、と見越してのことだ。


「せっかく吉野と一緒に仕事できると思ってたのになぁ……」

 飛鳥のボヤキに、ヘンリーは意外そうに訊き返す。

「彼と一緒に作業したかったの?」

「それゃあね……。楽しいもの、吉野がいると」

 ぽかんとしているヘンリーを、今度は飛鳥が怪訝そうに見つめ返す。

「何? 変かな? あいつ、できあがった映像を即興でいろいろいじるんだよ。速度を変えたり、トーンを変えてみたりさ。ケンブリッジの時だって、モニターでお客さんの様子に気を配りながら調節してくれてたんだ」

 飛鳥は唇を尖らせて、つけ加えた。

「すごいだろ? 僕にはとても真似できないよ」 


 ――飛鳥はすごいんだ。俺なんか、とてもじゃないけど真似できないよ。


 そう言っていた吉野を思いだし、ヘンリーはふわりと微笑みを零す。


「今回は我慢してくれるかい? また一緒にできる機会もあるだろうし。きみが望むなら、その機会を作ってもいい」


 飛鳥は残念そうに微笑んで頷いた。そして、今度こそティーカップを持ちあげ口許に運ぶ。だが、ポタリとカップの底から滴り落ちた紅茶の雫を見たとたん、急に思いだしたように顔をあげた。


「そうだ、ヘンリー。TSガラスの軽量化に成功しそうだって、佐藤さんから連絡があった。それにガラス粒子の形状を変えて、割れても危険のないようにもできるって。TS看板が一番実用化に近いかもしれないよ」


 飛鳥はとうとうと開発中のガラスの改良点について熱心に語りだす。そんな彼にヘンリーは相槌を打ちながら、にこやかに微笑んでいた。






「ヨシノ!」

 音楽棟に続く小径でやっと追いついて、フレデリックは息を弾ませながら吉野を呼んだ。だが振り向いた彼を見て、一瞬、びくりと身体が凍りつく。

「なんだ、フレッド?」

 表情を強張らせている彼に、にっと笑い返す吉野は、いつもの吉野だ。フレデリックは深く息を継ぎ、嘆息する。

「びっくりした。何かきみを怒らせるようなことをしたのかな、って」

「俺、そんな怖い顔していたか?」

 クスクス笑いながら、吉野は目を細める。

「そんなことは――、うん、でもちょっと驚いた」

 フレデリックは口を濁して首をすくめる。


「当たりだ。俺、怒ってるんだよ」

 フレデリックは息を詰まらせて、真っ直ぐに前を見つめる吉野の横顔を見つめた。

「――僕に?」

「まさか! クリスの馬鹿に。それから生徒会の連中。それから――、俺自身に」

 吉野は自嘲的に肩をすくめ、何かを睨みつけ、独り言のように続けた。

「アーニーやフランクは、どうやってここの身勝手な連中を統治してたんだろうな。それに、パトリック――。俺、今頃になってあいつらのすごさが解ってきたよ」


 ドラッグが蔓延っていた生徒会相手に、水際で押し留めていたチャールズにしろ、吉野の金融事件を寮一丸となって庇いぬいたベンジャミンにしろ、マフィア相手にアレンを守ってくれていたパトリックにしろ、吉野が考えていた以上に、彼らは吉野の知らないところで動いてくれていたのだ。

 そして、この学校で伝説といわれ、今なお尊敬を集めるヘンリーにしろ――。


「俺はいろんなことが、まるで見えてなかったんだなって」

 足を止め、悔しそうに地面を睨む吉野の背中に、フレデリックは不安そうに片手を添えた。


「どうしたの? 何かあった?」


 アレンに何かあったの? 


 本当は、そう尋ねたかったのに。

 フレデリックはその言葉を喉の奥に詰まらせたまま、どうしても言えなかった。本当になりそうな気がして、訊くことができなかったのだ。






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