三叉路8
ホテルのエントランスに白のオープンカーが横づけされる。
運転席にいる白金の髪をきっちりと結いあげ、黒のサングラスをかけた美女は、名残惜しげに助手席の若い男と人目も憚らず口づけを交わしている。車から降りたったその男の、まだ子どものようにも見えるあまりの若さにドアマンは内心驚きながらも、微笑を絶やさず声をかけた。若者は唇を歪めるようにして苦笑し、肩先に口元を擦りつけようと腕をあげる。ドアマンはさりげなくポケットからハンカチを取りだすと若者に渡した。若者はおそらく礼を言っているのだろう。次いで、おもむろにハンカチで口元に残る紅い口紅を拭いとると、ハンカチを返す替りに、ジーンズのポケットからチップを取りだしドアマンに渡した。
「ほら見ろ、言った通りだろ」
このホテルのロビーからは、ガラス越しにエントランスを見渡せる。一部始終を眺めていたマルセッロは、向き合って腰かけているアレンに揶揄うような瞳を向け、自慢げに言い放つ。
だがアレンは相変わらず無表情のまま黙っている。
「あんな浮気者に尽くしたって報われないぞ、お前」
あまりの反応のなさに、マルセッロはイライラと口調を荒立てながら、間を隔てるローテーブルに身を乗りだす。
「何やってんだよ」
回転ドアから真っ直ぐに向かってきた吉野の第一声に、アレンは表情のないままに顔をあげて立ちあがる。
吉野は背中越しに振り向いているマルセッロではなく、アレンを睨めつけている。
「何やってんだよ、こんなところで」
「アスカさんを待っているんだ」
ひくっと口元を引きつらせた吉野に、アレンは苦笑して言い足した。
「あんなところ、見られなくて良かったね」
そんな嫌味はさらりと聞き流し、吉野は顎を軽くふって、アレンについて来るように促した。わざとらしく肩を抱き、腹立たしげに耳許で囁く。
「あいつの前で飛鳥の名前を出すな」
「おい、お前、マルセルと契約したんだろ? 見返りに何を求めたんだ?」
ソファー越しにマルセッロが声をあげる。だが吉野は顔をしかめたまま応えない。
「おい!」
「ああ? なんだお前、まだいたの?」
面倒臭そうにちらりと視線を向け、吉野はアレンを押すようにして歩きだす。
「アスカさんは?」
今度はアレンも小声で囁くように訊いた。
「移動するようにメールした。まったくさぁ――、お前も大概、自覚しろよな」
吐き捨てるように言われたその言葉に、アレンは唇を噛み俯くしかない。何が大概で、何を自覚すればいいのか、まるで判らないまま……。
「本当に食えないね、あいつら。あのガキも、美人さんも」
吉野たちと入れ違いでソファーに腰をおろした黒のスーツに身を包んだルベリーニ宗家の側近であるルキーノに、マルセッロは腐りきった様子で愚痴を零す。
「ま、いいんだけどな。もうどうだって。あいつ、マルセルと契約したんだろ?」
「さぁ、存じあげませんが」
「俺に隠さなくったっていいだろ。あいつの狙いは何なんだ? ボルージャの何が目当てなんだ?」
ルキーノは微笑を絶やさぬまま、素知らぬ顔で首を振る。
「口が固いねぇ、相変わらず。つまらないなぁ。美人さんはつれないし、マルセルは籠りっきりだし……。なぁお前、何か面白いことない?」
そう言いながら退屈そうに髪を掻きあげていたマルセッロは、しばらく唇を尖らせたまま空を睨んでいたが、ふと何か思いついたのか、にやりと笑ってルキーノに顔を寄せた。
「ふーん、じゃ、変更なしなんだ」
ナイツブリッジのヘンリーのアパートメントに待ち合わせ場所を変え、ようやく飛鳥たちと合流できた吉野は、開店後の新立体映像ディスプレイの反響を聴きながら、とくに不満もなさそうに頷いた。
「あれ、食いさがらないんだ?」
デヴィッドが意外そうに目を見開く。
「フレッドがいいって言うんならいいだろ。問題が起きたらあいつの権限で収めるってことなんだからさ」
「え? あれってそんな意味なの? 彼、きっとなんにも考えてなかったと思う」
アレンがびっくりして反論する。
「ちゃんと解ってるよ、あいつは。それにもう、公開しちまったんだからさ」
吉野はどうでも良さそうに話題を変える。
「それより飛鳥、睡蓮池の光の万華鏡、店舗でも上手くいった?」
「うん、ばっちり。計算通り。あれ、お前が送ってくれたアラベスク模様からヒントをもらったんだよ」
「ああ、あの水中で光の模様が次々と変わっていくやつ? 綺麗だよねぇ。評判も上々!」
嬉しそうに微笑む飛鳥に、デヴィッドもすかさず相槌を打つ。
本店の開店前に、アレンだけ先に近くのホテルに移動させて、デヴィッドと飛鳥は来店客の反応を見てきたところだった。
映像だと解っているはずなのに、触れようとして映像内に踏みこんでくる客が多かったため、急遽ロープを張り巡らすことになった。
やはり水中に佇むアレンへの反響が凄まじく、写真に撮ると不明瞭にしか映らないにもかかわらず、フラッシュで映像がかき消されそうなほどだった、とデヴィッドは誇らしげに語る。
「そういえばフレッドは?」
「アーニーと話してる。きみのことじゃないの? また悪さをしでかしたんだろ!」
デヴィッドに、にやにやと意地悪く見つめられて、吉野はひょいと肩をすくめる。だがアレンもまたびくりと反応して、手に取ろうとしていたティーカップに指をぶつけ倒してしまった。
「ごめんなさい!」
「いいから。まだ熱いだろ」
慌ててローテーブルから流れ滴るお茶を掌で受けようとするアレンを静止し、吉野はポケットからハンカチを出して零れたお茶を塞き止めるように置く。
「台拭き、取ってくるよ」
てきぱきと動く吉野が部屋を出たとたんに、飛鳥は深く吐息を漏らす。
「まさか、あいつに先を越されるとはねぇ……」
え? と同時に怪訝そうな顔をしたデヴィッドとアレンに、飛鳥はくしゃっと鼻の頭に皺を寄せて苦笑う。
「このハンカチ、口紅がついている」
お茶に染まっていない元々の白い部分に、擦ったような紅が滲んでいる。
「いや、これは、その、」
しどろもどろに言い訳を探すデヴィッドに、飛鳥はくすりと笑みを返した。
「ほら、アーニーもケンブリッジのフラットにいた頃さ、よくシャツに口紅をつけて帰ってたじゃないか。こんな感じの」
ますます目を白黒させている彼を尻目に、「あいつに彼女だなんてなぁ……」と、感慨深そうにぼんやりと視線を漂わす飛鳥に、デヴィッドは口元を引きつらせている。
アレンは唇を固く引き結んだまま、紅茶色に染まってゆくハンカチに浮きでるような、鮮やかな紅をじっと見つめていた。




