三叉路4
待ち合わせ場所は、テームズ川沿いにあるホテルのロビーだ。
艶やかなマカボニー製の回転ドラム式ドアのエントランスから一番に目に入るソファーに陣取ると、アレンは壁にかかる絵を眺めて時間を潰すことにした。
異国の風景画を中心にして、オリエンタルな衣装を身につけた肖像画や風景画のエッチングが囲むように配置されている。この一連の絵画に共通のテーマがあるのだろうか――、と熱心に見入っていると、じきに「アレン」、と覚えのある声に呼ばれた。
「何を熱心に見ているの?」
いつの間にかすぐ横にまで来ていたフレデリックが、微笑しながら腰を屈めて覗き込んでいる。絵に没頭していたアレンは一瞬自分がなぜここにいるのか忘れ、それからじんわりと思いだして、取り繕うようにぎこちなく微笑みを浮かべる。
「この絵、どこの国かなって」
「ああ、おそらくトルコかなぁ。服装がオスマン帝国風だもの」
灰色のペイズリー柄の肘掛け椅子に腰かけ、フレデリックはアレンと同じく壁の絵画に視線を移す。
「そうなんだ。きみ、さすがだね」
アレンが感心して言うと、「ヨシノなら何時代のものかまで判るのだろうけど――」フレデリックははにかんで首を振る。
吉野があまりにも飛び抜けているから注目されることは少ないけれど、フレデリックはとても勉強家で博識だ。いろんな本を沢山読んでいて、話題も豊富で面白い。
――そのへんは吉野も同じだけど。
穏やかでいつも優しくて、面倒見が良くて、自分から自己主張するタイプじゃないし、地味、なのかもしれないけれど、信頼できる大切な友人。吉野の次に。
自慢の友人であるフレデリックのオスマン帝国に関する逸話を聴きながら、学校から離れた場所で逢う友人の美点を数え、アレンは改めて今の幸福を噛みしめていた。
やがて二人は背後の賑やかな声に会話を止めて振り返る。
そこにはクリスの満面の笑みがあった。
「やぁ!」
クリスが片手を挙げる。彼の傍らに寄り添い、彼の腕に自分の腕を巻きつけている彼女は、びっくりした様子でまじまじと一点を見つめていた。視線の先は、ソファー越しに振り返ったアレンだ。
この子、横で紹介しているクリスの声、ちゃんと耳に入っているのだろうか……。
フレデリックは口角をあげ綺麗に保ったまま、彼女ではなく、アレンの表情を盗み見る。親しい間柄でなければけして感情を露にしない、彼独特の無表情の変化に気づくことができるのは、自分と吉野くらいだ、とそんな自負がフレデリックにはあったから。
ロビーからティーラウンジに移動した。
ここのホテルのアフタヌーン・ティーはロンドンでも五指に入るほど人気が高い。クリスは彼女のために、ひと月以上前から予約を入れていたのだそうだ。席は二人から四人に変更にはなったが。
クリーム色の天井の中央をくり抜いたようなドーム型ステンドグラスの下には、非日常的な白い鳥籠のような東屋がある。その中央には黒いグランドピアノ。紺地にクリーム色の浮きでるような複雑な柄の絨毯の上には、上品なアイボリーの椅子の揃うティーテーブルがゆったりとした空間を挟んでいくつも並ぶ。その中でも、ピアノを正面に見据える席に案内された。
純白のクロスに覆われたテーブルに着いてからも、クリスの彼女はぽかんと口を開けたまま不躾なほどアレンを見ている。綺麗な栗毛が背中に流れる可愛らしい子だ。茶色の瞳は大きく愛嬌があり、生き生きと輝いている。この瞳でじっと見つめられて相槌を打たれ、甘えられたら、好きになってしまうのも解る気がする――。
フレデリックは失礼にならないように気をつけながら、ちらちらと彼女を観察していた。そして傍らのアレンを。
室内だというのに柔らかな自然光に照らされ、アレンの金の髪がきらきらと輝いている。下を向き、伏せられた煙る睫毛が時おり瞬きで揺れる。整った白皙の面に紅い唇。儚げで繊細な佇まい。ただここに彼がいる、というだけで、静謐で透明な空気が満ち溢れていく。
この彼を前にして、見るな、と言う方が無理なのだ。
フレデリックは一所懸命喋っているクリスに、にこやかに相槌を打ち、素知らぬ顔で黙り込んでしまっているアレンをフォローするように、彼の分まで喋っていた。
紅茶と三段スタンドが運ばれてきたとき、アレンがウェイターを呼び止めた。小声で話す彼にウェイターが身を屈める。上品に微笑み頷く彼に、アレンは微笑んで礼を言っている。
「クリス、きみのために一曲弾くよ」
アレンは真っ直ぐにクリスを見つめ、立ちあがった。
そして、白い支柱に囲まれた東屋の中のピアノの前に腰を下ろした。流れだす優しい調べに、もう一段、空気が柔らかく輝き、緩んだ気がした。
アレンが席を離れると、彼女は、ほっとしたようにため息をついた。
「本当に、彼、天使みたいね。話してくれた通り」
そして、その大きな瞳をくりくりさせて恋人に微笑みかけ、「あなたがただの人間で良かった。せっかく憧れのティーラウンジにいても、あんな綺麗な天使の前じゃ、むしゃむしゃ食べたりできないもの」と三段トレイに手を伸ばし、サンドイッチを摘まみあげる。
そんな彼女を眺めながら、クリスがそっと目配せした。
な、いい子だろ、――というふうに。
フレデリックはにっこり笑い、やはりサンドイッチを皿に取り分けた。ハム、卵、サーモン、胡瓜、老舗らしく仕様は定番だ。順繰りに味わい、次はスコーン。
彼女は緊張が解けたのか、急に賑やかになった。よく喋り、よく笑い、よく食べる。大ぶりなスコーンには、クロテッドクリームとジャムをたっぷりと塗って。
三段トレイには、なぜかデザートが載っていない。彼女が、がっかりした様子を見せると、トレイに載せられたデザートのプチケーキが運ばれてきた。
嬉しそうな歓声があがる。
「旨そうだな」
低い、聴き慣れた声にフレデリックは息を呑んだ。皆がプチケーキに目を奪われていた間に、吉野がアレンの席に座って笑っていたのだ。
大喜びで、クリスは彼女に吉野を紹介する。
また、彼女の目はまん丸だ。
今度はフレデリックの方が緊張した面持ちで、吉野をじっと見つめていた。
だが吉野は挨拶を済ますと、ティーカップに紅茶を注ぎ、砂糖とミルクもたっぷり加えると、取り分けられたプチケーキの載ったアレンの皿にサンドイッチを足して、立ちあがった。
「お前の音、腹減った、って言ってるぞ」
休むことなくピアノを引き続けるアレンの背中に、吉野は声をかける。
振り向いたその唇に、ゆっくりと温かい紅茶を注ぎ込む。
「そんな頑張るなよ」
背後のテーブルにティーカップを置くと、吉野は優雅に腰を屈めてアレンの眼前に皿を差しだした。
「どれになさいますか?」
指は鍵盤を叩きながら、アレンは瞳を輝かせて吉野を見あげると、にっこりと微笑んだ。
「ラベンダーのエクレア」
「サンドイッチからだろ?」
アレンの大きく開かれた口に、吉野は胡瓜のサンドイッチを頬張らせた。




