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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
458/805

  三叉路3

 固く閉ざされた濃紺の分厚いカーテンの隙間から、わずかに強い日差しが漏れている。その薄明りに浮かびあがるこの部屋は黒々とした静寂につつまれていた。時代がかった装飾的な家具も昔はその豪華さを誇ていたのだろうに、今は光を浴びることもなくひっそりと息をひそめている。忘れ去られた空間。吉野はそんな部屋のなかで自分の気配すら忘れたようにじっと静かに身動ぎもせず、ソファーで脚を組み、この屋敷の主が現れるのを待っている。


 しばらくすると、ようやく勢いよくドアが開いた。入ってきたその姿を見て、吉野の唇の片端が跳ねあがる。

「また、あんたかよ。マルセルはまだ起きあがれないのか?」

「俺が話を聞いてやるよ」

 後ろ手に閉めた戸口にもたれると、マルセッロ・ボルージャはふんぞり返って腕組みしている。

「懲りないな、あんたも――」

 面倒臭そうに吉野は息を吐く。



「セッロ! ここを開けろ! マルセッロ!」

 ドン、ドンと叩かれるドアにちっと舌打ちをし、身体をずらす。バンッと開け放たれたドアから飛び込んできたマルセルを横目に見て、マルセッロは歪な笑みを浮かべる。


「よぉ、元気か?」

 無礼な弟を脇に押しやり、マルセルはソファーに駆け寄った。締め切られたカーテンのせいで、部屋の奥に置かれたソファーにいる姿は見えづらい。突然の来客の名前を聞く前に駆けだした弟を、マルセルは不審に思って追いかけてきたのだ。ここを訪れる客なんて限られている。門前払いを食わずに済む相手はさらに少ない。


 けれど、吉野の声がするなんて、彼には思いもよらなかった。


「ヨシノ――」

 光を遮られた部屋の薄闇にいたのは、やはり吉野だ。

「来てくれるなんて」

 押し殺したような声でマルセルは呟く。

「顔色が悪いな。それとも部屋が暗いせいか?」

 向かい合わせのソファーの背もたれに手をかけ突っ立ったまま、放心しているマルセルに、吉野は片唇を引いて微笑みかける。テープのとれた頬に残る鮮明な傷痕に、歪な笑みが痛々しさに拍車をかける。


「おいお前、しばらくここに滞在するのか?」

 戸口横の壁に腕組みして寄りかかっているマルセッロが、声高にわめく。

「それなら、俺はお前の可愛い子ちゃん(ディヴィーノ)に会いにいくからな!」

 ひらひらと掌を振り、吉野は笑いながら応えた。

「どうぞ。でもあんた、あいつがヘンリーの弟だってことを忘れてるんじゃないのか? あいつをからかってキレるのは、ロニーだぞ」


 ロレンツォの名前を出され、マルセッロは露骨に顔を歪める。

 なんとも正直なことだ、と吉野は呆れ半分で感心する。この環境下でこうも素直に育ったものだ、と。


「セッロ、いい加減にしろ! 早く出ていってくれ!」

 兄の怒声にひょいっと肩をすくめ、マルセッロはカチャリとドアを開けた。

「いつまでも、そんな余裕の顔していられると思うなよ!」

 捨て台詞を残していくのも忘れなかった。


「なんで、あいつはいつまで経ってもあんなに幼稚なんだろう――」

 ため息混じりに呟きながら、マルセルはようやく肩の力を抜いて吉野の傍らに腰をおろした。

「お前らっていくつだっけ?」

 そういえば、家系図には年齢が記入されていなかったな、と思いだして訊ねた。

「25」

「冗談――」

 目を剥いた吉野の頬を、マルセルがくいっと引っ張る。

「い、た、い」


 不明瞭なその声にくすりと微笑み、マルセルは吉野をじっと見つめたまま頬の傷を指でなぞった。


「もう痛くないの?」

「うん。引き攣れる感じはあるけどな」


 頬に当てていた手を、そのまま首に滑らし巻きつけた。顔を寄せ抱きしめる。

「ありがとう。来てくれて」

「――お前、いつまで生きられるの?」


 静かに囁かれたその言葉に、応えはなかった。

「まだ俺が欲しい?」

 かすかに伝えられた肩越しの振動に、吉野はくすりと笑う。

「お前らって、本当にロレンツォに忠実なんだな」

 首に回された腕に力が篭る。

 吉野はじっと動かぬまま天井に目線を移す。象牙色の漆喰天井に紺青と金で描かれたアラベスク模様の繰り返しが、数学的でとても美しい。その複雑な模様を脳裏に写し取るように、黙ったままじっと眺めていた。


「いいよ、お前の接吻を受けても。条件次第だけどな。どうする?」


 唐突に呟かれた言葉に、マルセルの背中がびくりと跳ねる。

 忠誠を誓うのは生涯にただひとり。それを覆すことは一族への裏切り行為だ。だが敢えて禁を犯す者も今までにいたことも、まぎれのない事実。生き延びるためには臨機応変に。これも一族の信条なのだから。


「条件を――」

 吉野の肩から回していた腕をおろし、ソファーから滑り落ちるように床に膝をついて、マルセルは面を伏せて呟いた。

「一つ目。あの馬鹿を廃嫡にしろ。命までは、言わないからさ」

「なぜ? 僕ではボルージャは継げない。馬鹿でも必要な人間だよ」

 悲痛な瞳で、マルセルは吉野を見あげる。

「馬鹿しすぎたんだよ」

 怪訝そうに眉を寄せるマルセルに、吉野は「最後通告だ」と神妙に告げた。


「あいつ、ウイスティアンだろ? ロレンツォと同じ。数あるパブリックスクールの中でもダントツのインテリ校だ。その反面、ザ・ナインの中じゃスポーツは最下位レベル。エリオット戦でも負けっ放し。マルセッロは、ラグビー部のエースだったろ。それで、エリオットの生徒会の連中を麻薬漬けにしたんだよ。そこを足掛かりにしてエリオット校内に麻薬をばら撒いた。たかだか試合で勝つためにだぞ! そのうえ自分が卒業しちまったら、あとは放ったらかしだ」


 マルセルは納得できない素振りで頭を振った。


「たかがそんな事で廃嫡は重すぎる」

「その下らない見栄と無責任のせいで、ヘンリーの親友が死んでるんだ」

 マルセルの血の気が引いていく。

「殺しているんだよ、あいつの手下連中がさ。ヘンリーが知ったら間違いなくルベリーニとの関係を解消する。それ以前にロレンツォが黙っちゃいないぞ。先手を打つんだ」


 蒼白なまま、マルセルは唇を噛んで頷く。

 運が悪かったとしか言いようがない。弟の愚かな行動が火種となることはこれまでいくつもあった。だがそれがまさか君主となる人に関わってくるなどと、マルセルでさえ予知できることではなかったのだ。


「それから、次」

 吉野はソファーに深く身を沈め、薄闇に蠢く複雑なアラベスク模様に視線を戻して淡々とした口調で告げる。

「もう金輪際、アレンに手を出すな」

 無表情のまま動かないマルセルを、吉野はちらと見おろす。

「俺まで死にかけたじゃないか」

 そしてまた天井に視線を戻すと、歌うように軽やかに続けた。


「もしあいつに何かあったら、事故だろうと、病気だろうと、例え自傷行為であろうと、俺、お前がやったんだって思うからな。あいつは必要な人間なんだよ。必要不可欠なんだ。だからもし、次があったら、俺、ルベリーニを壊滅させるからな」


 項垂れたままカクンと俯いたマルセルに、吉野はすっと、右手を差しだした。手の甲を上に向けて――。





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