三叉路
「彼は、人を駄目にするタイプだね。ウィリアムの言っていた意味が、今頃になって実感できたよ」
ヘンリーは物憂げに笑い、空中のTS画面を指で弾いて消した。
「なんでぇ? ヨシノ、頑張ってるじゃん」
デヴィッドは自分のTS画面をスクロールしながら、気のない声音でいちおう反論する。ヘンリー言わんとすることが解らないわけでもなかったのだが。
「だからだよ。これではあの子はいつまでたっても自分の足で立てない。頑張ろうと思う度に、彼がこうやって甘やかすのだからね」
「そう? ヨシノの言うことも解るけどなぁ。それにヘンリーだって、サラのこと、べたべたに甘やかすじゃない」
ちらとヘンリーを盗み見る。だがデヴィッドは、ソファーの背もたれに頭をのせて、まだじっと考え込むように空中のTS画面を睨んでいる。ヘンリーはそんな彼の態度を気にするふうでもなかったが、その口から出てきた言葉は、いかにも彼らしくデヴィッドにきっちりと釘を刺していた。
「サラと一緒にしないで欲しいな。サラはいつだって、どんな酷い境遇にいようと、自分で自分の居場所を作りあげてきた。泣いて、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていただけのあの子とは違う」
「自分ではどうしようもない時だってあるよ。誰もがきみみたいにできるわけじゃない」
彼のそのあまりの言い様に眉を潜めたデヴィッドに、ヘンリーは止めの一撃を言い加えた。
「きみの話をしているんじゃないよ」
バンッ、と飛んできたクッションを、ローテーブルを挟んだ向かいのソファーで受け止める。
「あの子にも、反撃するくらいの気概が必要だってことさ」
サラも、飛鳥も、決して周りに甘えはしない。アレンだってもう解っている。こんな自分が嫌だと言った。
「ヨシノにはさぁ、いい薬だと思ったんだよ。でも、アレンのことにまで気が回ってなかったんだよ」
後悔に唇を噛み、デヴィッドはヘンリーを睨めつけた。
「あの子はあの子なりに必死なんだよ。息をするのも苦しいほどのあの子の気持ちなんて、きみには一生かかったって解らないよ」
遣り切れない思いで空中をピンッと弾いて、画面を消す。
「解らないよ。僕は彼じゃないもの」
返ってきたヘンリーの冷たい言葉に、デヴィッドは眉をひそめる。猫のように色の変わるヘーゼルの瞳が怒りで金色に燃えあがっている。
「そして、きみも、あの子じゃない。自分を重ねるんじゃないよ、デイヴ。きみがその容姿のことで嫌な思いをしてきたのは、僕だって知っているつもりだよ。でもきみはそのことで僕に泣きついてきたことはなかったよ。試験や、スポーツに関しては甘ったれだったけれどね」
懐かしそうに目を細め、ヘンリーはふわりと微笑んだ。
アレンと同じように中性的な、どちらかというと可愛らしい容姿だったデヴィッドも、寄宿学校では常に好奇の視線に晒され続けてきた。校内で「姫」と呼ばれていたのは、イベントで姫役を務めたヘンリーではなく、デヴィッドだった。
自分に似た立ち位置にいるアレンに、過剰に同調するのもある意味仕方ないが――。
「僕らはね、こういうことに関しては、それなりの覚悟を持って生きなければならないんだ。――あの女の血が流れているんだからね」
うすら笑いを浮かべた、彼の整った唇から発せられた最後の言葉に、デヴィッドは目を瞠る。いったい何年ぶりだろう。ヘンリーの口から母親の事が語られるのは……。
「アレンにはね、その覚悟が足りないんだよ」
そう言って唇を皮肉に歪めるヘンリーに、デヴィッドは眉を潜めたまま首を振る。
「きみ、あのポスターで彼に何を伝えたかったの?」
「アレンにかい?」
唇を尖らせたまま頷いたデヴィッドに、ヘンリーは柔らかい笑みを返し、ただ一言、「信じぬけ」と告げた。そして、額に溢れる髪をさらりと掻きあげる。
「デイヴ、きみ、もう見たかい? あの子の髪型。止めて欲しいな。まるで兄弟だ」
「兄弟だよ、きみたちは。きみがどんなに嫌がろうと」
「べつに嫌ではないよ」
ヘンリーは打って変わって、屈託のない微笑みを浮かべる。
「以前よりは、いくらかあの子のことを好きになったと思う。ここからはあの子次第だな。このまま甘ったれた坊ちゃんで終わるのか、ヨシノみたいな子を信じぬいて変わるのか――」
デヴィッドはやっとそれまでの緊張を解いて身体の力を抜き、深く嘆息する。
「アレンへのメッセージだったの?」
「二人ともに。それからアスカに。そして世界中の人たちに」
「もう、すごい反響だよ」
「当然」
「今年度の広告大賞、D&AD賞を狙えるかな?」
「応募してみれば?」
「かまわない?」
「もちろん」
ロンドンを中心に一部地域のみで実験的に展開されたTS映像看板は、その日の内に世界中のニュースで報道された。
角度によっては見えないという摩訶不思議な特徴によって、歩いていると突如現れる、その意外性。その鮮烈さ。美しさ。そして何よりもメッセージ性の高さによって、この映像広告は一気に世界中に拡散されたのだ。
テロ被害を連想させる傷ついた若者を抱きしめる天使。その瞳に浮かぶ絶望の色は、見る者の胸を締めつけた。前回、前々回ともに失われていた背中の翼は、また大きく開かれている。
この世の残酷さ、醜悪さを憂い、嘆き、悲しみながら、それでも天使は呟くのだ。
『 I believe in you.(あなた方を信じている) 』
と。
「すごい拡大解釈だな」
興奮して代わる代わる喋るクリスとフレデリックに、吉野はクスクスと笑いながら答えた。
「だいたいあの写真、テロのじゃないし。イタリアで車に轢かれかけたときのだし。おまけに修正入れまくりだぞ、あれ。じっさいはあんなに汚れてなかったもの、腕だって――」
「上腕じゃなくて、前腕だったものね。怪我が酷かったのは」
「大したことなかったよ。擦りむいただけだ」
アレンの言葉にすかさず訂正を入れつつ、吉野は困ったように首を傾げて苦笑する。
校内では、テロに遭遇するという恐怖の中、傷を負いながら生き残った二人――と、同情と尊敬に晒されているのだ。
「だからね、僕はテロのあったその場には、いなかったんだ」と、アレンが何度誤解を解こうとしたところで、一度広まった噂は早々訂正できるものではないようだ。
この映像の発信元のアーカシャーHDも、この場面は広告として製作されたものだと言っているのだ。それなのに、あまりの生なましさと、現実にテロの脅威に正面から立ち向かった会社だという、いまだ記憶に新しい事実ゆえに、誰もが信じようとしなかった。そして、エリオットの生徒の誰もが知っている事実がもう一つあった。この夏の間に刻まれ、謎に包まれていた吉野の頬の傷――。
「でも、また変な噂が広まったら嫌だね」
フレデリックが心配そうに表情を曇らせる。クリスもしかめっ面をして頷いた。
「平気」
アレンはにっこりと微笑んだ。
「あのメッセージの通りだって言うから」
その穏やかな顔を不思議そうに眺めて顔を見合わせる二人に、アレンはふふ、と笑いかける。
音楽棟の人目につかない中庭の芝生に車座になって座り、皆それぞれに、秋晴れの空をのんびりと見あげていた。




