影8
エリオット校正面を通るハイ・ストリートに面したカフェの路上テラスで、ひとりぼんやりと吉野は通りを行き交う人々を眺めていた。なぜかこの日に限って、通り過ぎていく人々がちらちらと彼に視線を向けてくるような気がしてならないのだ。
やはりこの派手な顔の傷が人目を引くのかと、コーヒーカップを片手に苦笑する。特に気にすることでもないのだが。そんな彼の視界に、制服のままのアレンが車道の向こう側から手を振っている姿が映る。Tシャツにジーンズの私服の吉野とは対照的だ。
車の切れ間をぬうようにして道を渡ってきたアレンをぽかんと見遣り、吉野は唇の端を跳ねあげる。
「お前、意外に怖いもの知らずなんだな」
ん? と軽く眉をあげ、アレンは微笑んで吉野のはす向かいに腰かけた。特に何も言い返すことなくにこにことしているアレンに、吉野はため息に似た吐息を漏らし、眉を寄せて首を横に振る。
そして、「その髪型は駄目だ。ヘンリーに似過ぎている」と、きっちりとまとめられたアレンの輝く金髪を、腕を伸ばしてクシャクシャと長い指先で掻き散らした。アレンはその掌を上目遣いに見あげると、不満そうに唇を尖らせる。
「きみが切れって言ったくせに」
「似合ってるよ。この方がずっといい。だからさ、かっちり固めるなよ。ビジネスマンじゃないんだから」
取ってつけたようなその言いように、アレンは膨れっ面をして見せて俯いた。けれど本当は、そんなおまけのような誉め言葉でも嬉しくて、にやつく顔を見られたくなかったのだ。
そんな感情の波が静まってから、アレンはぼさぼさにされた髪の毛を両手ですき、後ろに流した。短く刈った襟足の細く白いうなじがローブの黒に剥きだしに映える。
「お前さぁ、今日の護衛はあいつらだけなの?」
吉野はアレンの後ろのテーブルに着く、ボディガードのデュークとサイモンを目線で示した。
「うん」
アレンはまだ髪を気にしていて、忙しなく整えている。
「髪を切られたのですね。お似合いですよ」
紅茶を運んできた馴染みのウェイターが、微笑みながら声をかけた。
「ありがとう」
ウェイターは目を瞠って硬直した。このエリオット校きっての有名人、際立つ美貌の少年が、連れの友人以外に言葉を発したのを見たのは初めてだったのだ。これまで注文するときですら、友人が代理で告げるか、指でメニューを指し示すだけだったのに――。
満面の笑みでティーセットをサーブして、「どうぞごゆっくり」とウェイターは軽やかな足取りでテーブルをぬっていく。
吉野はその様子を眺めながら、嬉しそうに目を細めていた。少しずつでもアレンのこれまでの他人に対する異常な警戒心と、過剰な防衛反応が薄らいでゆくのが嬉しかったのだ。
時折前髪を気にしながら、アレンはティーカップを口に運んだ。理髪店での様子や、これから向かう買い物のことを話すアレンには、先日の思い詰めた様子もない。吉野は安心してのんびりと耳を傾け、相槌を打つ。
ローブを羽織っていても、もう暑いとも思わない。爽やかな秋の空気につつまれて、静かな、ゆったりとした時間が流れていた。
「なぁ、今日、やたらと見られてないか?」
寮とは反対方向の、街の中心に向かう石畳をコツコツと歩みながら、吉野はかすかに眉根を寄せる。
「そう? いつもこんなものじゃない?」
好奇の視線に晒されることの多いアレンは、いつものこと、と大して気にもしていないようだ。
道行く人々が、すれ違いざま振り返る。ほう、とため息をついて見とれている。男も、女も――。
だが、それがいつもと違うのは、誰も話しかけてこないことだ。いつもの憧れと羨望の眼差しの中に、別の色が混じっている。その色が何なのかが、吉野には読めなかった。
すれ違う人々の視線が何かを振り仰いでいる。この人目を惹く二人に気づいた見知らぬ多くが、同じ方向に目を遣っている。確かにアレンを見て、継いで誰もが自分の来た道を振り返って見ていた。
歩き続けて横断歩道の正面まで来たとき、やっと二人にもその理由が腑に落ちた。判らなかったはずだ。これが中途半端な角度からは見えない2DタイプTSガラスの特徴なのだから――。
そこは様々な店舗が立ち並ぶ街の中心の十字路だった。一角に、グレンツ社の携帯端末取扱い店舗があった。アーカシャーHDが買収したばかりの会社だ。当然、生産体制が追いつけば、ここのような小さな支店でもTSネクストを販売することになるはず――。
信号が青に変わっても、二人は突っ立ったままウィンドウの上空に浮かぶ、巨大広告映像をぼんやりと眺めていた。
吉野のため息に、アレンがおもむろに顔を向けた。俯いて苦笑しながら首を振る吉野に、困ったような、申し訳なさそうな笑みを向ける。
「僕も知らなかった」
アレンは震える声で呟いていた。
「新しいポスター、デヴィッド卿は、睡蓮池の写真にするっておっしゃっていた」
美しい眉根を寄せ、アレンは今一度、赤煉瓦の壁に目を遣る。そこに浮かぶ映像に――。
赤茶けた砂に汚れた白いTシャツを着た背中。そこから伸びる腕は擦り剥けて血が滲んでいる。そして、力なく項垂れる頭。その剥きだしの首筋にしがみつき、涙さえ流せなかった虚ろな瞳。眉間に皺を刻み、口元を引きつらせ、あの時、何を言ったのだったか……。
『信じている』
と、呟いたのだろうか? きみを信じている、と――。




