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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
452/805

  影6

 授業が終わり教室を出ると、廊下でフレデリックが先生となにやら話していた。遅刻すると教室には入れてもらえない。言い訳と謝罪をしているのだろう。

 クリスはアレンと顔を見合わせ、少し離れた場所で待っていた。話終わった彼が小走りでやってくる。


「ヨシノの説得は無理だったんだね」

 クリスが、ほらね、としたり顔で訊いてきた。フレデリックは苦笑いして肩をすくめる。

「論文を書くんだって。量子暗号の基礎になる数学理論の。先生も公認だってさ」


 やっぱり――、と瞳を生き生きと煌めかせて、クリスはうん、うん、と頷く。


「また数学誌に掲載されるのかなぁ。今から楽しみだよ! 前回の論文も中身はちんぷんかんぷんだったけど、本当に誇らしかったもの! 世界中の名だたる大学教授や研究者に混じって、僕たちのヨシノ・トヅキの名前が燦然と輝いているんだもの!」


 声高に喋るクリスの話を聞いているのかいないのか、アレンはぼんやりとした曖昧な笑みを浮かべている。そんな彼に気づくと、傍からは判らぬ程度に眉を寄せて、フレデリックはさりげなく辺りに視線を配った。廊下の端でじっとこちらを睨めつけている一団に目が留まる。灰色のトラウザーズに派手な赤のウエストコートは生徒会の連中だ。フレデリックは緊張で身を引き締めながら、アレンの背中に手をやった。


「もう行かなきゃ、遅れるよ」

「次、上級数学だね。あ~あ、この一時間だけでいいから、ヨシノの頭と僕のこのかぼちゃを交換して欲しいよ!」

 派手にため息をつきながら頭上で腕を組んだクリスに、フレデリックは釣られたように口許をほころばせる。だが、傍らのアレンは憂い顔で(くう)を見つめたままなのだ。

「うん。ヨシノがいてくれるといいのにね」

 フレデリックも、クリスに応えるように呟いた。真っ直ぐに、何もない一点を見つめて。







「おいお前、夕食、食わなかったって? 気分が悪いのか?」


 ほとんどノックの音と同時にかけられた声にびくりと顔をあげたアレンは、消灯までまだ時間があるというのに、電気もつけずにぽつんとベッドに腰かけていた。

 カーテンすら開け放されたままだ。窓から差し込む仄暗い月明かりに浮かぶ虚ろな姿に、吉野はむすっと眉を寄せる。動かないアレンの横に座ると、いつものようには括っていない、顔にかかる長い金髪に手を伸ばして無造作にかきあげる。


「熱は?」

 びっくりしたように目を見開いたアレンは、小さく首を振る。


「ちゃんと寝れているのか?」

「え?」


 やっと声が出た。吉野はほっとしたように口元を緩める。


「ナイトキャップティーを作ってきたんだ。カモミールミルクティー。お前向きに、ムカつくほど蜂蜜を入れてきた。これ飲んで寝ろよ」


 ぽかんと見つめているアレンの返事も聞かずに、吉野は足下に置いていたステンレスボトルを持ちあげて、蓋兼用カップに中身を注ぐ。

 ふわりと甘酸っぱい香りが広がる。湯気の立つカップを渡され、アレンは怖々と吉野を見あげた。


「ごめんなさい」

「何、謝ってるんだよ?」

「気を使わせて」

「馬鹿だな」


 吉野は笑ってアレンの頭をくしゃりと撫でた。アレンがニッコリして、渡されたお茶を一口飲んだとき、吉野はふと顔を逸らして制服のポケットに片手を突っ込んだ。


「電話?」

 アレンはできるだけ無関心を装って訊いてみた。

「出たら? 僕は、かまわないよ」

「ああ、いいんだ。どうでもいい相手だし」

「彼女じゃないの?」

「ん? ああ、ビジネス相談。クソみたいなことまで俺に訊いてくるからさ、面倒くさくって。俺、今ルベリーニんところの投資顧問してるんだ。金融のルベリーニが聞いて呆れる。宗家とスイス以外は内情ボロボロだ。――内緒だぞ」


 吉野がにやっと笑って人差し指を口の前で立てたので、アレンも微笑み返して頷いた。


 吉野は安心したように目を細めている。頬の傷のせいで上手く表情を表せなくなってから、こんなふうに目を細めるのが癖になっている。そんな事を思いながら、こくりと、手元のお茶に視線を落としてもう一口飲み下す。甘く暖かな液体が、心に引っ掛かっていた苦い澱まで押し流してくれるようだ。アレンは、ほおっと息を継いだ。


「PTSDじゃないかと思ってさ」

 わずかに首を傾げたアレンの髪を、吉野はまたくしゃっと撫でた。

「だって、怖かっただろ、あの事故」

「あ――、大丈夫だよ」

「思いだして眠れないんじゃないかと思ってさ。それに、食えなくなったり」


 そんな吉野の言葉に驚いて、アレンは目を瞠っていた。



 ――彼は、いつもきみの分まで考えているだろう?


 ずっとリフレインされていたサウードの声が、また脳裏を過る。


 否定するように首を振るアレンを、吉野はしかめっ面で睨めつける。


「お前、すぐ黙り込んで何も言わなくなるもの。辛いときは辛いって言えよ」


 ――もうそろそろ、きみは、自分の荷物は自分で持つべきだよ、アレン。


「あ、えっとそれは平気、だと思う。ほら、今日は、監督生になったプレッシャーっていうか。もっと自覚を持って頑張ろうとか、いろいろ考えていて」

「そんな緊張しなくたって、お前なら大丈夫だよ」

 吉野はまたふわりと目を細める。

「何かあったらさ、すぐに俺に言えよ。お前が何も言わないと心配なんだ」


 ――もうあまりね、ヨシノに負担をかけないで欲しいんだ。


 目を見開いたまま、アレンは頷いた。


「ありがとう――」

「お茶、旨いだろ? ボトル置いていくからさ、気が張るようならこれを飲んで、ゆったりした気分でちゃんと寝るんだぞ」

「うん」

 頷いたアレンの頭をくしゃりと撫でて、吉野は立ちあがった。


「おやすみ」

「おやすみ、ヨシノ」





 ぱたん、と吉野は後ろ手に自室のドアを閉めた。そのまま部屋の奥まで進み、窓を全開にして窓枠に腰かける。


「うん、さっきは出られなくて、ごめんな」


「うん。チューターと打ち合わせだった」


 見上げる暗い夜空には上弦の月。


「弓を引きたいなぁ――。ああ、ごめん。何でもないよ。うん、了解」


 優しい声音で呟きながら、感情のない眼差しは、ただ、ぽっかりと浮かぶ月を見ていた。





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