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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第八章
450/805

  影4  

「おい、お前、髪を切れよ」

 背後から、いきなり括ってある髪の束を引っ張られたのだ。アレンは「痛っ!」と小さく叫んで、そのまま後ろに力を抜く。倒れてきた彼を、吉野は慌てて支えにまわるはめになる。

「ダメだよ、デヴィッド卿と約束したもの」

 アレンが悪戯に目を細めてくすくすと笑いながら反論すると、吉野はもたれかかっている彼の背中を押し返して、厳めしく眉をひそめた。

「今年の下級生組は異様に長髪率高いだろ。お前のせいだぞ。生徒代表たる監督生が例外を作るなよ」


 その吉野の言いように、アレンだけでなく、クリスやフレデリックまでもが揃って目を丸め、口をあんぐりと開けている。


「きみの口から、そんな言葉を聞ける日が来ようとは――」

 フレデリックが、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。

「なんで?」

 心外だとでも言いたげな吉野の目つきに、またもや皆して神妙な顔になる。

「だって、きみ、例外中の例外じゃないか!」

 クリスが呆れたように吹きだした。


「俺はいいんだよ。俺の髪型をまねるような奴、いないもの」

 平然と言い放つ吉野に、今度は一同顔を見合わせて絶句する。

 いや、まねても同じようにならないんだよ、髪質が違いすぎて――。などとは誰も言えない。だいたい吉野は短髪だし、取り立てて特徴的な髪型をしているわけではないのだから、アレンとは比較できない。


「言いにくいんなら、俺からデヴィに言ってやるよ」

 ぐるりと皆の顔を見回したのち、本題に戻してアレンに視線を据えた吉野を見返す瞳がとたんに曇る。

 吉野の言い分は道理にかなっている。反論のしようはないのだが、デヴィッドが自分に求めている広告塔としてのイメージもあるのだ、とアレンの頭のなかではぐるぐると思考が巡っているのだ。



「授業は?」

 そんなの彼の返事を待つでもなくひらひらと掌を振り、ひとり歩きだした吉野に、アレンは腕を伸ばす。だが掴む前にぐっと拳を握りこんで、ぱたりと自分の横に落としてしまった。


「生徒代表たる銀ボタンが授業をサボらないでよ!」


 若干腹立ちまぎれに、遠ざかる背中に声を張った。

 吉野はくるりと振り返り、にっと片手を払う。


「俺はいいんだよ! 俺のまね、できる奴なんていないだろ!」



「まさしく正論」

「ヨシノだねぇ」

 クリスに続いて呟いたフレデリックは、もの憂い視線で吉野を見送るアレンにちらりと目を遣った。悔しそうでもあり、淋しげでもある友人の心中を(おもんばか)り、それでも艶のある綺麗な横顔にどう応えるべきか、と思案する。


「――今日こそ彼を説得してくるよ」

 フレデリックは苦笑し肩をすくめた。

「ヨシノ・トヅキの扱い如何(いかん)が寮の統制の鍵だって、フレミング先輩もハロルド先輩も、それにアボット先輩でさえ、口を酸っぱくしておっしゃっていたんだ」


 吉野の後を追って駆けだしたフレデリックは、あ、と声をあげ、思いだしたように振り返った。


「先生に上手く言っといておくれよ!」





「ヨシノ」

「なんだ、お前まで来たのか?」

 言いながら、吉野は(けやき)の幹にもたれていた腰を浮かせて彼のために場所を開けた。フレデリックはほっとしたように微笑んで、柔らかな草に覆われた大地に腰を下ろし、ひんやりとした空気と草いきれを胸いっぱいに吸い込む。

「樹に登らないんだね」

「もうさ、空を見ても自由に思えないんだ」

 思いがけない返事に驚いて、フレデリックは傍らの吉野を振り返る。


「欧州でいろいろあったから?」

 ふっと息を継いで首を振る吉野。

「ほら、今は首輪がついているからさ」

 悪戯っぽく眉をあげ、首元の白いボウタイに指をかける。

「首輪? 酷いなぁ。それって僕も同じだよ」

 フレデリックは声を立てて笑いながら、吉野の腕を小突いた。吉野も肩を震わせて笑っている。


 ひとしきりして、吉野は自分の膝に頬杖をついてフレデリックをしみじみと見つめた。

「なぁ、俺、お前の兄貴に逢ってみたかったよ。いろいろ話して、聴いてみたかったよ」

 穏やかな瞳のまま自分を見つめ返すフレデリックに、吉野は甘えるような視線を向けている。

「なぁ、お前の兄貴、どんな奴だった?」

「うーん――。優しくて、楽しくて。僕のことをすごく可愛がってくれていた」

 微笑みながら話すフレデリックを、吉野はじっと見つめている。


「ヘンリーはさ、ああ見えてすごく独占欲の強い奴なんだ」


 急に変わった話題に、フレデリックは不思議そうに眉をあげる。だが吉野は自分に話しているというよりも、どこか遠いところに視線を据えているようだ。それこそ、亡くなった彼の兄にでも話しかけているかのように――。


「だから絶対に誰にもお前の兄貴の話はしない。だけど俺が、お前に聞いた話をした時だけは、話して聴かせてくれた。お前のために。お前が誤解しているからって」


 瞳を震わせ、息を呑みフレデリックに、吉野は淡々と語り続けていた。


「お前の兄貴ってのは、あいつにとってさ、誰ともその思い出を分かち合いたいと思わないほど大切な記憶なんだ。あいつのこと、ハリーって呼んでいいのは、お前の兄貴(フランク)だけなんだぞ。だからアーニーも、デヴィも、ハリーって呼ばない。自分たちの方がフランクよりもずっと、付き合い長いのにさ」


 奥歯を噛みしめじっと地面を睨めつけているフレデリックの横で、吉野も同じように深緑に覆われた木立を眺めた。


「ごめんな。もっと早く話せば良かった」


 後悔を告げる呟きに、フレデリックはぶんぶんと大きく首を振る。


「ヘンリーはさ、フランクが死ぬ直前まで、本当に何も知らなかったんだって。フランクはさ、例の動画でわざとヘンリーを怒らせて自分から遠ざけてさ、ひとりで戦っていたんだ。アーニーは、少しは知っていたみたいだけれど、卒業していたしな」


 深々と濃い葉を重ねる梢から射す夏の残照が、目に痛かった。眩しすぎて見ていられなかった。

 だから、フレデリックは立てた膝の上に肘をつき目元を隠した。じっと息を殺して、吉野の言葉を一言一句聞き逃すまいと耳をそばだてながら。


「俺さぁ、一学年の時さぁ、アーニーに地図を貰ったんだ。ヘンリーとフランクが作った地図。校内のな、隠れ家っていうのかな、要するに、悪さする場所が記してあるんだ。下級生連れ込んだりさ、ドラッグ吸うのに使ったり――。そういう場所を一つ一つ調べていたらさ、フランクがたくさんヒントを残してくれていたんだ。自分がしくじった時のためだったのか、それとも卒業までにカタがつかなかった時のためなのか、もう判らないけどさ。そのおかげで、マクドウェルまでたどり着けたんだ」


 吉野は言葉を切って、ふっと表情を和らげた。


「だから俺、なんでフランクは命懸けでそんな頑張ってたんだろう、てずっと考えてたんだ」


 フレデリックもおもむろに顔をあげ、遠い記憶に想いを馳せる。


「やっぱりな、お前のためだったのかな、て思うんだ。自分が卒業して、ヘンリーが卒業して、入学してくるお前に、胸を張って誇れる母校だって言いたかったんだろうな、って」


 吉野は少し首を傾げ、フレデリックを見つめて目を細めた。


「お前の兄貴みたいな奴がいたからさ、この学校は五百年もの間続いてきたんだな、きっと。――監督生就任おめでとう、フレデリック・キングスリー。お前は俺の大切な友人で、お前の兄貴は、俺が一番尊敬している英国人だよ」


 吉野のくれた祝いの言葉が木漏れ日よりも眩しかった。今度こそ本当に目を開けていられなくて、フレデリックはぎゅっと歯を食いしばって瞼を閉じた。





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