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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
440/805

  家3

「フランスのルノー上院議員が収賄容疑で捕まったそうだよ」

 朝食の席で読んでいた新聞から顔をあげたヘンリーは、ふっと唇を歪めて苦笑を浮かべた。

「金のでどころは?」

「自然保護団体だって」

 狐に摘まれたような顔をするデヴィッドに、ヘンリーはクスリと笑って答えている。

「見るからに怪しげだよね。どうせやるならもっと上手くやればいいのに」

「ちょっと、見せて。全然話が見えないよ」

 ヘンリーから新聞を受け取ってざっと目を通したあとも、デヴィッドの表情は困惑を増すばかりだ。

「これ、どういうこと? 議員さまがこんな端金を受け取って捕まるとか――。馬鹿じゃないの?」

「おそらくでっちあげだよ。国外逃亡されないように、つまらない事件で嵌めて身柄を拘束しているのさ。何といってもルベリーニだ。相手はまがりなりにも議員だし、いろいろ画策している最中じゃないのかな。殺る前にね」

「殺るって、ロニーが、ってこと?」


 眉間に皺を寄せて呟いたデヴィッドに、ヘンリーは呆れ声をあげた。


「おい、きみまでロニーって呼ぶなよ。その呼び方をしていいのは、アスカだけだよ。それに、本人だって嫌がっているだろ」

「嫌がる? ヨシノもそう呼んでたよ」

「ヨシノのことは知らないけどね、アスカはイタリア語のロレンツォのRの発音が苦手なんだよ。だから英語読みの愛称のロニーでいい、ってあいつが許可したんだ」

「もう呼んじゃってるよ」

 どこかポカンとしたデヴィッドの緊張感のない顔を見て、ヘンリーはクスクスと笑いながら首を振った。

「それで何も言われなかったの? あいつ、僕にはロニーって呼ぶなって煩く言っていたのに!」

「きみさぁ、そりゃ、きみがハリーって呼ばせないからだよ。だいたい頼まれたって、きみは彼を愛称で呼ぶ気なんてないくせに!」

「当前だろ」


 そう、そう、きみってそういう奴だよ、と諦めにも似たため息をつき、デヴィッドは話を戻した。


「それで、ロニーがルノー議員を殺せって言ってるって?」

「そうは言ってないよ」


 ヘンリーは、ベイクドビーンズをつつきながら、思慮深い瞳をデヴィッドに向ける。


「おそらく彼は、パスタでも食べながら『俺の友人がルノーに襲撃された。腹立たしい』って呟くだけさ。あとは勝手に周囲がカタをつけてくる」


 顔をしかめ、深くため息をついたデヴィッドに、ヘンリーはなんともいえない笑みを向けた。


「解っているだろ?」

「解っているよぉ。そういうものだって。ただ――、」

「あの子たちにはそんな世界を見せたくないし、知られたくもない、ってところかな」


 ふわりと微笑んだヘンリーに、デヴィッドは強ばった笑みを返す。


「自分のときは、ざまあみろって思ってたんだけどねぇ」


 自分や家族に差し向けられた殺し屋が獄中で自殺したり、護送中の事故で死んだり、なんてことは当たり前だった。暗殺に誘拐、請け負った仕事が失敗した時点で雇い主が敵に変わるのも自明の理。雇う側にしたところで、殺人にしろただの脅迫にしろ、バレれば社会的に抹殺されるだけではなく命すら狙われる覚悟くらいは持っているはず――、かどうかは知らないが。今の、このルノーの足掻きっぷりを見る限りでは。


 空になったティーカップに、マーカスが紅茶を注ぐ。ふわりと広がる柔らかな香りに、デヴィッドのささくれだった心がわずかに緩む。ミルクを足し砂糖を入れ、銀のスプーンでかき混ぜる。ほっと息を継いで、彼は、カップの中でくるくると回る乳白色の渦をじっと見つめていた。


「それで、本当の黒幕の方はどうするんだろう? ルノーみたいにはいかないだろ?」

 視線を固定したまま、デヴィッドは独り言のように呟いた。

「お祖父さま?」

 紅茶のカップを持ちあげ視線で頷いたデヴィッドに、ヘンリーも物憂い瞳で唇を曲げる。

「一時休戦、といきたいんだけれどね」

「へぇ――」

 意外そうに瞼を瞬かせたデヴィッドに、ヘンリーは少し首を傾けて告げた。

「ヨシノが心配だ」

「これ?」


 デヴィッドはティーカップを持ち上げたまま、反対の手の人差し指で頬に線を引く。


「心の方」

「アレンじゃなくて、ヨシノ?」


 デヴィッドは、またも訝しげにヘンリーを見つめる。


「彼、明らかにいっぱいいっぱいだよ。昨日だって言動がおかしかった」

 表情を引き締めるデヴィッドに、ヘンリーはため息混じりに話し続けた。

「自分の旅行を切りあげて帰ってくるほど、アレンを心配しているのに、あの車の事件はルベリーニに貸しが作れてラッキーだって言うんだ。矛盾しているよ。ルベリーニの優位に立ってことを上手く運ばなきゃ、て使命感と、傷つけられる恐怖とで、彼、ぐちゃぐちゃだよ」

「――気づかなかった」

「そりゃあね。――アスカの身体はね、傷だらけなんだよ。一番酷いのが背中の傷。『杜月』の買収に絡んだ嫌がらせで、ヨシノを庇ってできた傷だよ。今回みたいに車に跳ねられかけたんだ。いや、跳ねられたんだ、アスカは」

「それ、いつごろの話?」

 デヴィッドは痛ましげに眉を寄せ、表情を曇らせて訊いた。


「アスカが、十五、六のとき。解るだろ? こんなことがある度にヨシノは、そしておそらくアスカも、トラウマを呼び起こされるんだ。本当は、すぐに二人とも医者にみせたいくらいなんだよ。でも、」

 苛立たしげに言葉を切ったヘンリーに、デヴィッドは納得した様子で頷いた。

「アスカちゃんの禁止薬物治療がネック、だね」

「もうこの三ヶ月、薬はまったく使っていないんだ。完全に薬がぬけたら、守秘義務を守れる信頼できる医者か、カウンセラーを探そうと思っている」


 ヘンリーの心配そうな、だが決然たる想いに同意するように頷きながらも、デヴィッドは首を捻っている。


「でもアスカちゃんはともかく、ヨシノがうん、て言うかな? あの子の日本での一番の親友のスオーのね、お母さんが心理療法士でさ、あの子、こういう方面の知識は半端ないよ。そんな子が素直にカウンセリングなんて受けるかなぁ?」

「自覚しているってこと?」


 すっと眉を寄せるたヘンリーを、デヴィッドは怖々と上目遣いに見あげた。


「共依存だろ? 少なくともヨシノは自覚しているみたいだよ」

「いつから知っていた?」


 寒々とトーンの下がったヘンリーの声に居た堪れず、デヴィッドは視線を手許に逸らして紅茶のカップを両手で覆う。


「日本で。僕もスオーの家で弓道を習っていたからさ。スオーのお母さんが心配していたんだ」

「守秘義務もなにもあったものじゃないな」

「ヨシノもいたもの。あっけらかんと笑い話みたいにしてた。『世話すんのはいいけど、アスカちゃん、自分に縛りつけるんじゃないわよ!』って。それ、冗談じゃなかったって気がついたのは、こっちに帰ってきて大分たってからだよ。アスカちゃんの薬のこともずっと知らなかったし……」


 申し訳なさそうにちらっと見あげたヘーゼルの瞳には、予想通りのヘンリーの苦々しげな顔が映っている。


「あの子は本当に――」

 ヘンリーは言いかけて、ふっと力をぬいた様子で朗らかに笑いたてた。

「分かった。僕が間違っていた。あの子に甘え過ぎていたんだ。あの子はまだまだ保護されるべき子どもなんだね。これからは僕が責任を持って処理するよ」


 大人しくいうことを聞いてくれるただの子どもなら、それでいいのだけれど――。


 そんなことはヘンリーは解っている。解ったうえであの吉野を子ども扱いしている。不精なヘンリーが、なにをどう処理するのだろう、と訝しく思いながら、デヴィッドは、吹っ切れたように微笑んで朝食を口に運ぶヘンリーを、ぼんやりと見つめていた。




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