家2
「お帰りなさい」
「ありがとう」
「違うわ。ただいまって言うのよ」
サラは池の上にかかる木製の太鼓橋の欄干から身を乗りだして、唇をとがらせて言い返す。
「分かっているよ、それくらい。ちょっと嬉しかったんだよ。分かれよ、それくらい」
苛立たしげな吉野の声に、サラはびくりと肩を震わせた。
「ほら、またすぐ怯える! 俺、何もしやしないよ!」
嬉しかったと言いながら眉をしかめて睨みつける吉野のことは、いつまでたっても理解できない。飛鳥はいつも優しくて、口にする言葉そのままに、いつもにこにこしているのに――。吉野はいつも意地悪で、口にする言葉のまま、膨れっ面をしている。そんな吉野が、サラは少し怖いのだ。
「この池、気に入った?」
そんな彼女から目を逸らした吉野の声は少しだけ柔らかくなったようだ。この場から逃げだしたい想いを押さえて、サラは小さくこくんと頷く。
「早く、飛鳥に見せたい。これ、日本庭園を西洋の庭に合うようにアレンジしてあるんだ」
自慢げに瞳を輝かせる吉野に、サラはまたこくんと頷いて呟いた。
「すごく綺麗」
「だろ?」
満足そうに声を弾ませ、吉野はくるりと背中を向けた。
サラのための池にする。
そうヘンリーの言ったこの池をデザインしたのは、吉野なのだ。だからサラは、お礼を言おうと思っていたのに。ここで、待っていたのに。先に訳のわからない「ありがとう」を言われ、混乱して言えなくなってしまった。
投資の話をしているときは、飛鳥と話しているのと変わらない程度には普通に会話できるに、それ以外のなんということもない話になると、挨拶以外の言葉が続かない。今日は、挨拶すらも上手くいかなかった。
「早く、アスカが帰ってくればいいのに――」
サラは緑に塗装された欄干に両腕をついて、澄んだ水鏡に写る自分を見つめて、ふぅっと深くため息をついていた。
「顔色が悪いね」
ベッドの端に横座りして、ヘンリーは蒼白な弟の面にかかる乱れた髪をかきあげている。
「眠るのが怖くて。目を瞑ると車のライトが眩しくて、目を瞑るのも怖くて――。それに、ヨシノが、ヨシノが倒れて――」
虚空に視線を彷徨わせたまま両手で自分の頭を抑え、悲痛な声で呟く弟の頬を、ヘンリーはそっと掌で包みこむ。
「医者を呼ぶよ」
アレンは縋るような目をして兄を見たが、すぐにふっと目を伏せて首を振った。
「医者は嫌なんです。どうせ処方されるのは、睡眠薬か安定剤でしょう? ヨシノが嫌がる」
小さな声で囁かれた投げやりな言葉に、ヘンリーは微かに苦笑する。
「横になって。アスカに教えてもらった、とっておきの方法を教えてあげる。目を瞑ってごらん」
軽く目を見開いて驚いたように兄を見つめたアレンは、一瞬の躊躇ののち、ふわふわの大きな羽枕にいわれた通りに頭を沈め、目を瞑る。その上をさらりとした温もりが覆った。口を開きかけたアレンの戸惑いごと覆ってしまうように、ヘンリーの静かな声が落ちる。
「もう車のライトは見えないだろう? 彼はぶじだよ。きみは何も心配しなくていいんだ。安心して」
反対の手で優しく髪を梳いてくれている兄の、柔らかで温かなビロードの声はあまりにも心地よい。アレンの凝固してしまっていた恐怖と緊張は、ゆっくりと解かれていた。
「アスカが眠れないとき、彼はずっとこうしてあげていたそうだよ。今日は、僕がお前の傍にいてあげる。大丈夫。ヨシノはぶじだから。きみが眠って次に目が覚めたときには、彼はきっときみの傍にいてくれる」
ぼんやりとした意識のどこか上の方で、優しく繰り返される呪文のような言葉が、疲れきった気怠い肢体に染み渡ってゆくようだった。アレンはようやく、穏やかな優しい闇にその身をゆだね、ふわりと意識を手放していた。
「おい! 起きろ!」
うるさい! 僕はまだ眠いんだ、放っておいてくれ!
カーテンを引く音。差し込む光に、アレンは身体を覆うシーツを引きあげて頭まで被る。
「ほら、起きろって! 今すぐ起きないと置いていくぞ!」
「無理――」
言ってしまってから、気がついた。
ヨシノだ! 叱られる!
ガバリと跳ね起きたら、ベッドに腰かけてシーツをはぎ取ろうとしていた吉野の頭にぶつかりそうになった。そこはすかさず吉野のことだから、ひょいと避けてくれたけれど。
スッキリと目が覚めていた。ずっと続いていた気怠さも頭痛もない。
「あ! お前、昨夜着替えずに寝ただろ! だらしないなぁ」
自分は服装に無頓着なくせに、彼はこういうことには意外にうるさい。
「五分でシャワー浴びて着替えてこいよ!」
どうして彼はこうも朝から元気がいいんだろう? とアレンはまだ覚めやらぬぼんやりした頭で、いつも不思議に思うのだ。
だがアレンは頷くと、のろのろと立ちあがった。あまりぐずぐずしていると、吉野が理不尽に怒りだすから――。
「どこかに行くの?」
部屋を出る前にふと思いだし、振り返って訊いた。
「庭。改装が終わってるからさ」
「ん」
「俺、テラスにいるから」
「ん」
寝ぼけた頭のまま、ドアをパタンと閉めていた。
居間からテラスに抜け、そこで二人は軽い朝食を取る。やはり吉野は朝からご機嫌だ。アレンも、ようやくしゃっきりとした意識を取り戻してきている。しばらく受け付けられなかった朝食も、今朝はそこそこ口にすることができていた。
兄のおかげだ――、とアレンも何とはなしに気分が良かった。
朝食を終えると階段を上がり、小広場から紫陽花の小径をゆるゆると進んで、ゴールドクレストの林を抜ける。温室のガラスが朝の光をはねあげているところまで来ると、アレンは不思議そうに吉野を見つめた。
「どこら辺りに手を入れたの? 全然変わったように見えないけれど」
「もう少し先だよ」
吉野は目を細め、視線でさらに奥を示して言った。
「ほら、見えてきた」
鬱蒼とした樹々の間でどんよりと澱んでいた池は、もうどこにもない。
かわりに、透明な光を含んだ澄んだ水を湛えた、モネの絵画が具象化していた。睡蓮の絵そのままに――。
緑や赤紫の葉が揺蕩い、そこかしこに清廉な白い花がぽっかりと浮かぶ。
水底まで見渡せる透明な水の中で水草の茎がゆらゆらと揺れる。
池に架かる緑色のアーチ橋が、鏡面となった水の表で微かに揺らぐ。流れ、揺れる度に、池を囲む樹々から零れる木漏れ日が水と踊る。
三次元の世界に展開する印象派の絵画のような、七色に色を変えて水に溶ける光のスペクトルに、アレンは言葉を忘れて立ちすくんでいた。
「この橋から見るのが一番綺麗なんだ」
動かないアレンを、吉野は腕を掴んで引っ張っていく。緑色の欄干の橋の麓に植えられた枝垂れ柳が、かすかな風にそよそよと揺れた。
「俺、ジヴェルニーの「水の庭」わざわざ見にいったんだぞ」
ジヴェルニーの「水の庭」――。モネの造った睡蓮の咲く池。あの一連の睡蓮の絵の原風景だ。
「ここはお前のための池だよ。お前が喜ぶと思って造ったんだ。新学期から監督生だからな。お祝いだよ。――一学年終わる度にさ、お前はここに帰ってくるんだ。ちょうどその時期に睡蓮が咲いて、お前のこと、迎えてくれる。な、ここから大学も通ってさ。そうやっているうちにさ、ヘンリーとだって、もっと兄弟らしくなっていける。花が咲いて、しぼんで、また咲いて――。一緒に季節を巡るんだよ。お前もここで、あいつと一緒にな」
「おい、泣くなよ。お前、あんな怖い想いをしたときだって、泣かなかったじゃないか。こんなことくらいで泣くなよ……」
どこかおろおろとした、吉野の声が可笑しかった。
目に映る睡蓮の花が、歪んで滲んで見えるのは、風で水面が揺れるせいなのか、溢れて止まらない涙のせいなのか、アレンには判らなかった。




