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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
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  矜持10

「あんたの方こそ、こんなところで油を売ってていいのか? 大事な儀式の最中だろ?」

 嘲笑うような吉野の問いに、マルセッロはふんと鼻を鳴らしてアレンを指さした。

「こいつがここにいるのに、儀式も何もないだろうが!」

「なんだ、あんた、何も知らないのか?」

 呆れ声を発した吉野の瞳が、薄暗がりに輝いている。


「儀式はとっくに滞りなく終わってるよ。マルセルが、不甲斐ないあんたの替りに努めを果たしたんだ」

 同情するように肩をすくめられ、マルセッロは呆然と立ち尽くす。

「信じられないなら、電話でもして確かめてみなよ」

 吉野の言葉に、慌ててタキシードのポケットのあちらこちらに手を入れ、携帯電話を探し始める。ちっと舌打ちが聞こえる。どうやら見つからないらしい。

「俺の貸そうか?」

「余計なお世話だ!」

 笑いを堪える吉野に、マルセッロは腹立たしげに指を突きつけ、「覚えてろよ!」と、捨て台詞を残して去っていった。



「本当に追いかけてくるなんて、あいつ、正真正銘の馬鹿なんだな……」

 呆れているというよりも、感心しているようにも聞こえる吉野のしみじみとした呟きに、アレンは吹きだしながら小首を傾げた。

「儀式を邪魔されないように、ここにおびき寄せたの?」

「それもあるよ。こんなに上手くいくとは思わなかったけどな。見かけ通りの、あんな単純な奴で助かったよ。さぁ、飯食いにいこっか!」

 立ち上がり大きく伸びをする吉野に、アレンはそれこそ呆れたように目を丸める。

「あんなに食べたのに!」

「あれは昼飯。立体映像のプログラム組んでいたらさぁ、昼、食い損ねたんだ。あー、腹、減った!」




 ライトアップされたアルノ川越しに、大聖堂、ヴェッキオ宮殿、フェレンツェの街が紺青の空に包まれ煌々と浮かびあがっている。この夜景を眺めるためか、広場には未だに観光客が切れ間なく訪れている。夕暮れ時より減ってはいるが、それでも人々の間をぬうようにして、二人は階段を下っていった。


「俺、階段が苦手なんだ」

 吉野らしくない言葉に、アレンは訝しげにその顔を見据えた。

「飛鳥が、階段から落ちたか、突き落とされたかして酷い怪我を負ったことがあるからさ、こんな石の階段を降りる時って、なんだか怖いんだ。突き落とされそうな気がしてさ」

 すっと伸びてきた腕に、吉野は傍らのアレンを振り返る。


「落ちないように掴んでおくよ」

 吉野はくっくっと喉を鳴らして笑った。

「馬鹿だな、それじゃ、お前まで一緒に落ちるだろ」

「踏ん張るから」

「試してみる?」


 しっかり掴んでいると思っていたのに、腕はいつの間にかするりと抜けて、その身は残りの石段を一足飛びに飛んでいる。

 着地と同時にくるりと反転し、茫然と立ちすくむアレンを下から見上げた吉野は、目を細めて笑っていた。




「城門を抜けた辺り、その界隈はトラットリアがいろいろあるんだ。そこで何か食おう」

 夜とはいえ、まだまだ人通りもあり賑やかだった。飲食店の前にはり出されたテラス席からは、さんざめく笑い声や威勢の良い会話が聞こえてくる。見ているこちら側まで楽しくなるその雰囲気に、アレンもうきうきと辺りを見回しながら足を進める。



「アレン!」

「え?」


 白く光る車のヘッドライトで、何も見えない。


 振り向きかけたアレンの肩を抱きかかえ、吉野は地面を蹴っていた。


 ふわり、と宙に浮いた気がした。

 そう思ったのも束の間、地面に叩きつけられる鈍い音と、身体に伝わる衝撃、呻くような吉野の声が耳元を掠る。走り去る車の走行音が石畳に反響し、木霊のように耳に残っていた。

 ぎゅっと瞑っていた目を開いて一番にアレンの視界に入ってきたのは、自分が下敷きにしている、辛そうに顔をしかめて地面に横たわる吉野だ。


「ヨシノ! ヨシノ!」


 傍らに膝をつき、アレンは必死の形相で吉野の肩を揺さぶった。


「揺するな、痛いだろ」


 眉間に皺を寄せたまま腹立たしげに瞼を持ちあげ、吉野は軽く首を振ってゆっくりと上半身を起こした。その首筋にアレンは飛びつき、ぎゅっとかじりついた。その腕が、細い背中が、小刻みに震えている。


「怪我、してないか?」


 耳元で囁かれた静かな声音に、アレンは腕に力をいれて返事にかえた。答えようにも、ぎゅっと喉元を抑えつけられているかのように声が出なかったのだ。


「俺は大丈夫だよ」


 動揺の収まらない彼を宥めるために、吉野の大きな手がその背中をとんとんと優しく叩いた。だがその視線は裏腹に厳しく、警戒するように傍らに佇む二人のボディーガードに、無言のまま顎をしゃくって指示を出している。


 耳元で吉野が何か喋っている。イタリア語だ。いつの間にか周りに人垣ができていた。大声が飛び交っている。どこか現実離れしたその風景を視界に映しながらも、アレンは見てはいなかった。抱きしめる吉野の身体が熱く汗ばんでいる、とだけ、ぼんやりと感じていた。


「ほら、もう平気だろ?」

 吉野は背中に腕を回したまま、「よいしょ」と、力の入りきらないアレンの身体を支えて立ちあがらせた。


「え? お前、泣いてないのか?」


 やっと身体を離したその顔を覗きこみ、吉野は驚いたように声をあげた。血の気を失ったその面は、今にも泣きださんばかりに瞳を潤ませながらも、雫を溢れださせることはなかった。ただひたすらに我慢するように、じっと唇を噛んで口をへの字に曲げていた。その頭を、吉野は目を細めてわしわしと撫でた。


「怖かっただろ? いいんだぞ、我慢しなくても」

「きみに、何か、あったら、僕が、守るから、泣いてなんて、いられない――」

 喉を詰まらせながら、やっとアレンは答えることができた。

「ありがとな。お前はいるだけで俺を守ってくれているよ。だってな、お前がいると、俺はずっと強くなれるんだ。だからさ、無理しなくていいんだぞ。そのままでいいんだ」


 吉野はアレンの頭をぐいっと引き寄せ自分の肩口に当てると、そっと優しく髪と背中を撫でてやる。


 こんな異国の夜道をふらふらと出歩くことなんて、数えるほどしか経験したことのないお坊ちゃんが、いきなり車に轢き殺されそうになったのだ。動揺しないはずがない。恐ろしくなかったはずがないのだ。


 飛鳥だって――。


「心配いらない。今度こそ、俺が守るからな。誰にもお前を傷つけさせやしない……」


 言いながら吉野は、アレンの頼りない、か細い背中を抱き支える腕に、さらに力を込めていた。






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