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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
436/805

  矜持9

 棚引く雲に金色(こんじき)が溶ける。横たわるアルノ川が降り注ぐ金を跳ねあげ、大聖堂の丸屋根(クーポラ)を中心に広がるフェレンツェの赤褐色の屋根を染めあげる。まさに黄金の夕暮れというに相応しい景色に言葉を忘れて、誰もがただ見とれている。

 フィレンツェ市街を一望できる小高い丘の上にあるミケランジェロ広場の階段に大勢の観光客と同じように腰かけて、アレンもまた、眼前に広がる風景を恍惚と見つめていた。



 麓から緩やかな石畳の階段を上り、すでに人でいっぱいだったこの場所に、吉野と二人、きょろきょろと座れる場所を探した。と、恰幅の良い老婦人に手招きされた。わずかに空いた隙間を指して何か言っている。吉野はすぐに明るく返事する。老婦人は、怒っているのかと思えるほどの大声で喋り散らし、周囲を追い払うように片手を大きく振り回している。彼女の傍に座る人たちが少しずつ詰め、二人分の空間ができあがる。彼女は満足そうに微笑んでいる。アレンは吉野と二人並んで腰を下ろした。吉野の発した「ありがとう(グラッツェ)」という言葉は、イタリア語の判らないアレンにも聞き取れた。慌てて彼も同じように呟いた。


 吉野はその老婦人と気さくにお喋りを始め、道なりで買ってきた大量のパニーニをおひとつどうぞ、と勧めている。婦人は丁寧に断って、自分も手提げ袋から、紙袋に入ったビスコッティ・ディ・プラートを取り出して、しきりに吉野に、そしてアレンにも勧めてくれた。


 吉野は嬉しそうに二つ摘まみあげ、ひとつをアレンに渡した。続いて手にした堅焼きアーモンド入りビスコッティをガリッと噛む。婦人は、吉野の足下に置かれたテイクアウトのコーヒーを指さして何か言っている。吉野は頷いてカップの蓋を外し、「こうやって、カプチーノに浸して食べるといいって」と、アレンを振り返り教えてやる。吉野のコーヒーはカプチーノではないのだが――。


 吉野は隣の婦人とお喋りしながら、そして時々アレンにその内容を通訳しながら、ものすごい勢いで袋の中のパニーニを消化している。


「そんなにお腹が空いていたの?」

 それならこんな軽食じゃなくて、レストランに行けばよかった――。

 アレンはアルノ川に架かるヴェッキオ橋の向こうに落ちきった夕日から目を逸らし、申し訳なさそうに吉野を見遣る。


「夕日、綺麗だったろ?」

 アレンが言わんとしたことを拒むように、吉野は赤みを帯びて黄昏れている町並みに目を細める。だが、すぐにくすくすと笑いだし、「長居しすぎたな」と、隣の婦人と二言、三言別れの挨拶らしき言葉を交わして立ちあがる。




「暑いだろ? やっぱ、その格好はなかったな」

 揶揄うような吉野の視線にアレンは唇を尖らせる。

「ヨシノが急かすから」

「でもさ、そのせいで話しかけてくる奴、いなかっただろ? きっと撮影かなにかしてるんだと思われたんだよ」


 このクソ暑いのに汗もかかずに澄ました顔でタキシードを着こなしているアレンは、「目立つ」を通り越しているのだ。吉野は遠巻きに眺めている連中にも、こっそりと写真を撮っている連中にも気がついてはいたが、放っておいた。


 なに食わぬ顔で広場中央に立つダビデ像を見上げながら、吉野は楽しそうに笑っている。アレンもそんな彼の気楽な様子につられて、微笑んでいた。




「ほら、おいでなすった」

 吉野はすっと、ダビデ像の台座の下に設けられたベンチ替りの石段に腰かけているアレンを隠すように足を踏みだす。


「久しぶり! もう損失金額、確定できたの?」

 吉野の弾むような明るい声とは対照的に、近づいてきた男はきつく結んだ唇をかすかに震わせている。長身でがっしりとした体躯のよいその男に、アレンは見覚えがあった。高級スーツを着たまだ中年とはいえない、四十手前の若々しい男だ。アレンの誕生会の日に、トラファルガー広場で吉野と対峙していた男に間違いない。


「頼む――」

 その男、ハーディ・オズボーンは、聞き逃しそうな小さな声で呟いた。

「残念だけれど、無理だよ」

 吉野は歌うように答えた。

「スイスフランでファンドの資金八億一千万ドル、全部、飛ばしちゃったんだって? 災難だったね。でも、敗残者に情けをかけるほどジムは甘くないよ」

「なぜだ? なぜ私だけが? あの時の償いも、制裁も、ちゃんと受けたじゃないか! 頼む、ジェームズに頼んでくれ、もう一度チャンスをくれって!」

 跪かんばかりに哀れな声を絞りだし懇願するオズボーンを、吉野は、アレンからみるとまるで吉野らしくない冷ややかな視線で見据えていた。


「本当、残念だけれど。せっかくスタンレー投資銀行下のヘッジファンドのトップになれたところだったのにね。会社(スタンレー)はどうするって? クビなの?」

「このままだと私のファンドは破綻だ――、だが、」

「ジムが救済してくれれば助かるんだね」

 打って変わった吉野の優しげな声に、オズボーンはほっとしたような息を漏らす。


「いいよ、言うだけなら、言ってみるよ」


 表情のあまり動かない吉野の引きつった歪な笑みに、オズボーンは瞳を輝かせていた。

「ありがとう! チェリー!」

 吉野はひょいっと肩をすくめ、この話は終わり、と顎をしゃくる。オズボーンは何度も頷きながら後退り、やがて踵を返すと人混みに紛れ消えていった。



 吉野の肩がかすかに震える。


「なんでもないよ」

 くるりと振り返って、吉野はアレンに笑いかける。

「もう、あいつは何もできない」

 心配そうに揺らぐセレストブルーの瞳を安心させるように、吉野は言葉を継いだ。

「会社の規定する規則を破って、資本金の二百倍のハイレバリッジで取引していたんだ。ファンドは破綻。あいつは会社から損害賠償を訴えられるだろうな」

「助けてあげるんじゃないの?」

「俺、言うだけ言う、って言っただけだよ」


 咎めるように眉根を寄せたアレンに、吉野は不思議そうな顔をして答えていた。


「あの男はさぁ、何度も飛鳥を殺そうとしたんだぞ。『杜月』を乗っ取るためにさ。俺、ガキだったし知らないと思ってるんだろうね。向こうもさ、あの頃は、チェリーが杜月の息子だって知らなかったしね」

「――復讐?」

 見開かれたアレンの憂いを帯びた瞳を、吉野の無邪気な鳶色の瞳が見つめ返す。やがて吉野は彼の柔らかな金髪をくしゃっと撫でて、おもむろに首を振った。

「まさか! 俺、何もしていないぞ! 自業自得ってやつだよ」



 吉野を獲得するためのジェームズ・テイラーたちのゲームは続行中だ。だが確実な儲け話があるとなると話は別だった。


 吉野はテイラーにスイスフラン上限撤廃時期をリークし、クリスの祖父アンドルー・ガストンが統括する英国の銀行筋と、サウードの政府ファンドと合わせて一斉にスイス中央銀行に攻撃を仕掛けた。別に、攻撃しなかったところで方針変更は既定路線だ。問題はそれがいつか、ということだけで。一週間後か、一ヶ月後か、その決意を促すための買い仕掛けに過ぎなかった。

 そして結果は予想通りに動き、ユーロは暴落。為替取引でユーロ買いの巨大ポジションを持っていたオズボーンのファンドは一瞬で資本金を飛ばした。これも、マリーネが大株主であるフォレスト社の株式を狙って、過分にユーロ買いポジションを積んでいたためだ。それも値動きの安定していた、ユーロ買いスイスフラン売りで――。


 吉野は何もしていない。ただ、オズボーンには、この取引を教えなかっただけ。




「こんなところで仲良くデートか? 見せつけてくれるな!」


 どこか重く沈んだ空気を打ち破るように落ちてきた刺々しい聞き覚えのある声に、吉野も、アレンも、ため息混じりに顔をあげた。





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