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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
435/805

  矜持8

 昨日まではあんなに嬉しそうに、早く行きたい、との想いを熱く語っていたアレンだったのに、いざ憧れのウフィツィ美術館に足を踏みいれても、緻密で壮麗な天井のフレスコ画を、とくにどうという反応もなく浮かない顔でぼんやりと眺めているだけである。廊下に居並ぶ古代の彫像群も目に入らないようだ。


 デヴィッドは小さく息を漏らし、「ヨシノがいないからって、そんな風に不抜けていたんじゃもったいないよ!」と人差し指を突きつける。軽く睨んでアレンをたしなめる。アレンは、あっ、と誤魔化すように小さく首を横に振る。

「それはかまわないんです。いつも彼をつき合わせて、申し訳なく思っていたから」

 ふわりと浮かんだ柔らかな笑顔が、その言葉が嘘ではないことを語っている。

「でも、元気ないじゃん」

 訝しげに向けられるヘーゼルの瞳に、アレンはちょっと肩をすくめて首を傾げた。


「ヨシノが……」

「やっぱりヨシノじゃないか!」

 呆れ声をだすデヴィッドに、アレンも申し訳なさそうな笑みを見せる。

「ヨシノが、なんだか変なんです」

「あの子はいつだって変な子だよ! 気まぐれだし、我がままだし、身勝手だし! だからアスカちゃんがいつもすっごく心配してぇ、」

「ヨシノのこと、すごく好きなんですね」

「へ?」

 思いがけない切り返しに、デヴィッドはポカンと口を開けたままだ。

「悪口言えるほど、よく知っているんだって、ヨシノが言っていました」

 アレンは鼻高々に微笑んでいる。

「あ~、ヨシノがねぇ――。それで、きみ、なんでそんな浮かない顔している訳?」

「ヨシノが、優しくて、」


 話が見えない――。


 狐に摘まれたような顔をするデヴィッドに、アレンは可愛らしく唇を尖らせる。

「だって、彼、いつもはちょっと意地悪でしょう? それなのに、今朝は朝食を残しても怒らなかったし、コーヒーに砂糖を三杯入れても何も言わなかったし、それに、出かける前はいつも、うっっ、てなるくらい色々注意されるのに一言も小言を言われなくて、楽しんでこいよ、って――」

 アレンは同意を求めるように小首を傾げた。

「あんまり優しいと、ヨシノじゃないみたいで気持ち悪くって」

 真顔で告げる彼に、デヴィッドはどう返答するべきか、ついに思いつかなかった。





「お前、なんで着替えてんの?」

 今夜のパーティーのためのタキシードを着たアレンに、吉野は怪訝そうに眉を寄せている。

「なんでって、今夜は僕のためのお披露目だよね?」

 ルベリーニ一族が一同に会する席で四分家から忠誠を捧げられ、宗主のロレンツォからもう一度指輪を受け取る正式な儀式が取り仕切られる、確かそう聞いている。

「出なくていい」

 言葉の通り吉野に出席する気はないようだ。もう時間も迫っているというのに、Tシャツにジーンズ姿なのだから。



「いってらっしゃ~い!」

 タキシード姿のデヴィッドがドアにもたれて、手をひらひらと振っている。

「テストは?」

「問題なし」

「よろしくな」

「しくじって僕がやられちゃったら、屍はちゃんと英国に連れて帰ってねぇ」

 親指と人差し指で銃の形を作り、自分の頭を撃ち抜く素振りをしながら、デヴィッドは笑っている。

「笑えねぇ」

 返す言葉とは裏腹に、吉野はくすくす笑いながらひょいと肩をすくめた。


「行くぞ」

「え? どこへ?」

「ミケランジェロ広場に夕日を見に」

 唖然としているアレンの腕を取って、もう吉野は振り向きもせず歩きだしている。




 白を基調とした壁という壁が金縁に収まった絵画に覆われ、同じく金で装飾的に縁どられた天井には、天使の舞う青天の描かれているルベリーニ家大広間は、続々と訪れる正装し着飾った紳士淑女で溢れかえっている。


 そんな中でロレンツォは、鷹揚な笑みを浮かべて一族の者たちからの挨拶を受けていた。

 今日の主役であるアレンは、ホール最奥の窓際で、真紅の布張りの椅子に腰かけ窓外に視線を向けたままだ。その横にいるデヴィッドが、まるで番犬のように話しかけてくる相手をあしらっている。

 日没までにはまだ時間があった。このホール内よりも、よほど明るい窓から差し込む白い陽光は、アレンの金髪を透かし後光のように輝かせている。


 こうして見ているとまさしく天使だな、と、ロレンツォは、時折その姿に目を遣っては吐息を漏らした。だがルベリーニ四分家を屈服させたのは、そんな彼ではない。今、この場にはいない吉野なのだ。



 ――ルベリーニ一族が東洋人に跪く訳がないだろ?


 吉野は揶揄うような、嘲笑うような瞳を向けて言ったのだ。


 ――王様ってのは、誰もが納得するカリスマじゃなきゃいけないんだ。ヘンリーやあいつみたいにさ。あいつ、まさにうってつけだろ? 北も南も、天使のイメージってそう変わらないんだな。いろんな国の教会や美術館に行ってさ、やっと分かったよ。あんた達があいつの顔が大好きな理由。ホント、まんまだもんな。外見以上にさ、ぼーとしているくせに、お前らなんか眼中にありません、て顔つきがさ!


 そして当たり前のように言い足した。


 ――それにさ、王様ってのは、象徴であり傀儡である方が、いろんなことが上手くまわるもんなんだよ。


 分家四家がそれを納得し屈したのであれば、宗主として承諾せざるを得ない。だが……。ロレンツォは、なんとも割り切れない想いを抱えたまま、この日を迎えてしまっていた。




「宗主」

 控えめな呼び声に、ロレンツォは意識を現実に引き戻した。型通りの挨拶を終えたマリーネが、どこか影のある所在なさげな瞳を向け、「ヨシノ……、トヅキは、来ているのでしょうか?」と煙る睫毛を瞬かせて、伏せがちの面のままで小声で訊ねている。

「滞在してはいるが、出席はしていない。観光に行くと言っていた。それより、これで揃ったか?」


 ロレンツォは、頷くマリーネに先んじて歩きだす。儀式の始まりだ。




 しんと静まり返った大広間の窓辺で、逆光を受けたアレンのシルエットが、おもむろに右手を差しだした。

 ルドルフ・フォン・ヴォルフを筆頭に、マリーネ・フォン・アッシェンバッハ、フィリップ・ド・パルデュ、マルセッロ・ボルージャが、順番にその手を取り、一族が息を殺して見守る中、忠誠の言葉と接吻を捧げる。

 だがなぜか、ルドルフも、フィリップも、アレンの手に触れるや否や怪訝な顔をして、ぎくしゃくと型通りの所作を取った。マリーネはただ淡々と、そしてマルセッロ……、いや、マルセルは自分の番を終えるなり、顔を伏せて声を殺し笑っているではないか。


 厳粛な面持ちで指輪を渡すためにアレンの手を取ったロレンツォは、唖然として、柔らかく微笑むアレンの顔を凝視する。その視線を傍らに立つデヴィッドに滑らせて睨めつける。彼はついっと視線を逸らし、素知らぬ顔で天を仰ぐ。


 一族を会しての重要な儀式に、立体映像だと!


 ルベリーニを小馬鹿にしたとも受け取れる所業に、一瞬、ロレンツォは怒りで頭が真っ白になった。だがすぐに吉野の真意に思い至り、その口許を緩ませた。


 あいつが仕えるのはアレンじゃない! この技術を生みだした飛鳥、飛鳥なのか――?


 ロレンツォが再びアレンの虚像の手を取りぎゅっと力を込めると、触れた箇所から蒸発していくように、像はキラキラ光る分子に分解されて消えていった。


「ロレンツォ・ルベリーニは、欧州四分家がアレン・フェイラーを象徴とするアーカシャーHDの新技術に一族の命運をかけることを、ここに承認する!」


 高らかな宣言とともに、会場から歓声と拍手が沸き起こる。


 命拾いしたデヴィッドは、役目を終え緊張が解けたのか、深く、深く、息を吐いていた。




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