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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
432/805

  矜持5

 ガラス張りのドーム型の天井に目を向けると、中央から流れ落ちる滝の如く吊り下がるシャンデリアの先端が水滴のように光っている。その細やかな光の連なりの奥には、このロビーをぐるりと囲む各階の部屋に灯るカーテン越しの明かりが、ぼんやりとした輪郭を刻んでいる。

 しばらくその光を目で追い、やがて飽きたのか小さく吐息を漏らしたアレンは、退屈そうに辺りを見廻し始めた。大理石の天井、壁、深緑のソファーに黒の肘掛椅子はモダンなデザインで、老舗ホテルに相応しい。


 でも……、「ヨシノは?」といきなり背後から声をかけられ、アレンはびくりと身動ぎして振り返る。気がつくと声の主はもう、向かいの肘掛椅子に座っている。


「彼になにか用ですか?」

 警戒心剥きだしで眉を潜めるアレンにマルセッロは、「そんなに毛を逆立てなくても、なにもしやしない」と、いかにも朗らかそうな笑顔を向ける。

 アレンはそれ以上なにも言わず、遊覧船で初めて会ったときと同じように、ローテーブルの上の一輪挿しに飾られた白い花にすっと視線を固定した。


「明日からレンツォの屋敷に滞在するんだろ? 俺も行くんだ」

 ――――。

「あんたの連れはどこに行ったんだ?」

 ――――。

「なぁ、」


 なにを言っても反応のないアレンに業を煮やしたマルセッロは、にやっと笑って素早くその横に座り直すと、後頭部でくくってある金色の束をぐいっと引っ張った。


「やっとこっちを向いた」

 勝ち誇った子どものような満面の笑みで、彼は驚いて大きく見開かれたセレストブルーの瞳を覗きこむ。


「その手を放して頂けますか、ボルージャ公」


 冷ややかな声に、二人同時に面を向けた。アレンはほっと立ちあがり、マルセッロはちっと舌打ちをする。


「おい、放せくらい自分で言えよ。お前、自分の意思がないのか?」

 揶揄するように背中にかけられた声に応えることもなく、アレンは、ウィリアム、そして自分のボディーガード二人と連れだってその場を立ち去った。




 だがそのときの険悪なムードとは裏腹に、エレベーターのドアが閉まるなりくすくすと笑いだしたアレンに、ウィリアムは怪訝そうな視線を向けていた。


「彼、やることがヨシノみたい」

 苦笑するウィリアムに、アレンは思いきって言葉を続けた。兄の秘書である彼とは、今は吉野の守り役だということで顔を合わせることが多いのに、言葉を交わすことはほぼなかったからだ。以前から話してみたいとずっと思っていたのだ。

「ヨシノって、日本にいた頃から今みたいな感じだったのですか?」


 さっきのマルセッロのような子どもっぽい吉野と、大人と対等に渡り合っている吉野――。今も彼とデヴィッドは、スイスでのフォン・ヴォルフ家との契約だのの込み入った話のために、食後のレストランにロレンツォ・ルベリーニと残っている。アレンだけが先に戻るように言われ、部屋にひとり篭るのも嫌で、ロビーでぼんやりとしていたのだ。


「そうですね、友達と遊んで弓道に水泳に勤しんで、今とそう変わらないのでは、と思いますが」

 そうじゃなくて――、ともの問いたげなアレンの視線に、ウィリアムはにっこりと微笑み返した。

「でも、少しは紳士に近づいたかな。以前よりは断然マシだと思うときもありますよ。もう、何でもかんでも噛みついてこなくなりましたしね」

 漆黒の瞳を細めて懐かしそうに笑うので、アレンは羨ましそうに眉根をあげる。

「エリオットに入学したての頃は、彼のこと、あまり知らなくて。でも、その頃から彼は話題性に事欠かなかった」


 ポーン、と降りるべきフロアを告げる機械音に、アレンは言葉を切った。




「部屋にいて下さいね。何かあれば呼んで下さってかまいませんから」

 念を押すように言うウィリアムに頷いて、アレンひとりだけが部屋に入った。ドアを閉めるなり先ほどのマルセッロの言葉が絡みついてくる。


 ――自分の意思がないのか?


 その場にずるずるとしゃがみこんで、アレンは両腕で頭を抱えこむ。だがすぐにぐいっと後ろに背筋を反らせて、自分に言い聞かすように呟いた。


「頭を高く上げろ! 僕の意思はひとつ、叶えたい願いもひとつだけだ。欲張るんじゃない!」


 上に向けられた視界に映るのは、自分を閉じ込める白い壁に白い天井。それでも、あの日の決意そのままに、アレンはぐっと奥歯を噛みしめた。





「強いのはドルだよ、当分は。ユーロ建ての流動資産って、ヤバイのはもう処理したんだろ?」

 食後のコーヒーを飲みながらの吉野のこともなげな口ぶりに、ロレンツォは大袈裟に眉根をあげた。

「まぁ、それなりにはな。仕方がない。こんな短期間でどうこうできる額じゃないんだ」

「有りすぎるってのも大変なんだね」


 吉野の揶揄うような視線にため息をつきつつ、ロレンツォは目前の少年をつくづくと眺める。


 ルドルフの報告によれば――。

 それまでスイスフラン防衛ラインでは中央銀行のスタンスである、スイスフラン売りユーロ買いのポジションを取っていた米国、英国の大手ファンド、スイスに大口口座を持つ石油系ファンドまでが、このひと月ばかりの間に、いっせいに反対売買を仕掛けてきていた。

 多くの銀行や個人相手のFX会社が巨額損失をだすなかで、その米、英の一部大手銀行、ヘッジファンド、石油系ファンドは巨額の利益を上げている。 

 彼は、いったいどれほどの巨大資本を動かせるのか、調べて欲しい。


 報告はそんな依頼で締めくくられていた。



 訊いたところで、この小僧が素直に答えるはずもない。今のところは敵対している訳でもない。こいつが顧問に就いてから、アッシェンバッハ家のバランスシートは確実に改善した。

 こいつの様に数字に強いだけの奴ならいくらでもいる。要はそんなことではない。この先を読む能力――、これが、マルセルがこいつを望んだ理由なのか。


 ロレンツォの腹のうちを、残る二人はどう読んでいるのか。同じテーブルに着く三人とも黙ったままだ。

 そのうち誰からともなく、大方の話も終わっている、帰るか、と立ちあがりかけたとき、ノックとともに入ってきたウィリアムは、身を屈めデヴィッドの耳元で何事か囁いた。


「失礼をいたしました」

 面をあげて向けられた視線に、ロレンツォはきょとんとした瞳を返した。

「なんだお前、自慢の瞳はどうしたんだ!」

「いろいろと誤解を招きかねないので」


 特徴的なライムグリーンの瞳では、仕事に差し障りがでかねないのだ。と、ウィリアムはかなり以前からカラーコンタクトを装着していることに、彼は気づかなかったらしい。

 当然か、彼は私を嫌っているのだからわざわざ顔を見ることもない、と内心で苦笑し、表では柔らかな笑みを湛えてウィリアムは応じている。




「ヨシノ、真っ直ぐ戻るよ。マルセッロ・ボルージャがアレンにちょっかい、かけてきたって」

 ロレンツォと別れたとたんに囁かれた、皮肉な匂いを含んだデヴィッドの急かし声に、吉野も頷いて足を速める。

「だから、部屋に戻っとけって言ったのに。あいつ、最近全然、俺の言うこと聞きやしねぇ」


 吉野のぼやきに、デヴィッドはその肩を組み、「きみが嘘ばっかりついているからじゃないの?」と、鼻を鳴らして当て擦った。





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