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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
425/805

  ラボ6

「父さん――」

 父は、人影の絶えたホテルのテラスに続く階段にぽつんと腰かけていた。飛鳥は静かにその傍らに腰をおろす。

「大丈夫だったよ。吉野の傷、開いてないって」

「そうか」

「うん」

 ため息交じりに笑う父に、飛鳥もなんともいえない複雑な笑みを返す。

 二人は肩を並べたまま、闇のなかに広がる芝生の向こう、街路樹の狭間に見える、ライトアップされた湖に視線を漂わせる。

「少し歩く?」

 飛鳥の誘いに、父は俯いたまま首を横に振る。


「吉野は大丈夫だよ」

 真っ直ぐに向けられた視線の先で暗い湖は鏡面となり、優雅なホテルを照らす灯りを揺蕩う水面に映している。頭上の夜空の星よりも、それは明るく激しい人工的な光を放っていた。

「吉野は恒星なんだ」

 飛鳥は地上の灯りから目を逸らし、首をぐいと伸ばして夜空を見あげた。

「どんなに隠そうとしたって、はなから無理なんだよ。どこにいたってあいつは自ら輝いて、あの有無を言わせない引力で、良いも悪いも引き寄せてしまうんだ」

「あいつは、お祖父ちゃんにそっくりだな」

 淋しげに微笑んだ父に、飛鳥はさらに言葉を重ねる。

「そうだよ、父さん。お祖父ちゃんと同じだよ。今のあいつには、いい友達がたくさんいるんだ」

「彼のような?」

 目を細めてやっと自分を見た父に、飛鳥は嬉しそうに頷いた。


「あの時、彼、震えていただろう? すごく怖かったんだと思うよ。――あの子、アレンはね、ずっと虐待されて育ってきたんだ。だから本当に、すごく怖かったろうと思うんだ。怒鳴る大人も、子どもに手を振りあげる大人もね。――僕は父さんが間違っていたとは思わない。吉野にはちゃんと伝わっている。でも、彼には違う。それも仕方ないことなんだ」

「私は、あの子にひどいことをしてしまったのか……」

 表情を曇らせた父に、飛鳥は微笑んで首を振る。

「そうじゃなくて、もう昔みたいに、吉野のことを利用しようとする奴らばかりじゃないってことだよ。彼みたいに、身を挺してでも守ろうとしてくれる人たちが、今はたくさんいるんだ。以前とは違う」

 飛鳥は言葉を切って、ほうっと深く息を吐く。


「父さん、」

 自分を落ち着けようともう一度深呼吸してから、飛鳥は身体の位置をずらせて父と向き合った。

「ちゃんと吉野に話すよ。吉野がしたことの結果も、僕がしでかしたことの結果も。吉野の言う通り、あいつはもう子どもじゃないんだ。自分の荷物を自分で背負ってもいい頃だよ」

 淡々とした飛鳥の口調に、杜月氏はふわりと微笑んだ。

「お前、成長したなぁ。こっちが心配になるほど、あいつを甘やかしてきていたのに――」

「あいつ、本当に勝手だもの。僕の言うことなんて聞きやしない! だからもう子ども扱いしてやらなくていいんだよ!」

 飛鳥は唇を尖らせてわざと顔をしかめてみせる。父はそんな飛鳥の言い様を、鼻の頭に皺を寄せてくしゃっと笑った。


「あいつと一緒に『杜月』を、お祖父ちゃんの残した想いを守っていくよ。だからもう、心配しないで」



 ごめん、父さん。

 父さんの口から告げられるくらいなら、僕が言う。だって父さんは、吉野のことを守り切れなかったじゃないか――。

 たとえ父さんでも吉野を傷つけるのは許さない。吉野は今まで充分過ぎるほど傷ついてきてるじゃないか、僕たちのせいで!

 僕は絶対にあきらめたりしない。吉野をあんな奴らの好きにさせたりしない!


 そんな決意を胸に固め、なおかつ表面にはおくびにも出さずに、飛鳥はふと思いだしたように呟いた。

「それにしても、吉野はなにを勘違いしてるんだろうね。お祖父ちゃんの死と、吉野はなんの関係もないのに」


 その何げない一言に、杜月氏はやっと和らいでいた緊張の糸を、再びピンと張り詰めた。





「賭けたんだよ。文字通り、命を」


 言うべき言葉が見つからないまま驚愕の面持ちで黙りこくるアレンを鏡越しにちらと見遣り、吉野はゆっくりとテープを剥がした。


「ほら、もっと派手な傷になるかと思っていたのにさ、意外に大したことないだろ」

 洗面台の鏡に映る自分に背を向け、開け放たれたドアに寄りかかっているアレンからもよく見えるよう、吉野は左の頬を向ける。そこに走る一本の赤い線にアレンは辛そうに眉を寄せた。


「でも、また傷が増えた」

 口元に新しくできた瘡蓋を押さえ、またくるりと鏡を覗き込む。

「なんか俺、しょっちゅう殴られてないか?」

 新しいテープを傷の上に張り直している吉野に、アレンは唇を突きだして首をすくめた。鏡に映るその顔は今にも泣きだしそうで、吉野は慌てて振り返る。

「冗談だよ。気にすんな」


「さっきの話、命を賭けたって?」

 アレンは俯いたまま、逸れた話をもとに戻した。


「祖父ちゃんは飛鳥を守るために英国に逃がしたんだ。飛鳥の才能さえバレなきゃそれで良かったんだ。でもそうしたら、次は日本にいる俺が狙われる。敵はガン・エデン社とグラスフィールド社だ。あいつらの本当に欲しかったのは、祖父ちゃんの頭脳だよ。だからそれを自分で葬った。そうすりゃ、残った『杜月』には大した価値はないからさ、俺や親父が狙われることもない。ガキだった俺を守るために、祖父ちゃんは死んだ」


 大理石の洗面台に腰かけて、吉野は動く方の頬を器用に歪めて笑った。


「馬鹿だろう? 俺なら死んだりしない。生きて、絶対に飛鳥を守りぬいてみせる」


 顔をあげ、食い入るように自分を見つめるアレンに、吉野はくいっと首を傾けた。


「ありがとな。親父を止めてくれて。嬉しかった。俺が殴られて痛いのは、俺よりも、飛鳥や親父自身の方だからさ。あれ以上傷つけずに済んだ。助かったよ。――解らないかな?」


 吉野は一旦言葉を切って、アレンをじっと見つめた。泣きだしたいのをじっと我慢しているのか、彼は唇を強く引き小刻みに震えていたのだ。


「親父も飛鳥も、俺が金融市場で生きるのを嫌うけれど、もう俺は退かないよ。金も力もない奴に大切なものを守ることなんてできないんだ。俺は誰よりもそのことを知っている」


 とうとう堪らずに顔を伏せ、黙りこくってしまったアレンに歩み寄り、吉野はその髪に長い指を絡ませた。


「ほら、泣くなよ。俺は、お前が誰よりも芯の強い奴だって知っているんだぞ。だからさ、俺のために泣くな」


 肩を震わせ、唇をぎゅっと噛みしめて、アレンは小さく頷いた。伏せたままの顔にかかる柔らかな金髪を、吉野は小さな子どもにするように、わしわしと、何度も、何度も撫でてやった。





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