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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
423/805

  ラボ4

 夕闇の迫るホテルの隣接する円形レストランが夜間照明に切り替わった。天井まで届くガラスを挟んで張りだされた屋外のテラスデッキは、地上から大人一人分の高さにある。そこからさらにしっとりと広がる芝生を経て、暮れ時の薄紫に染まるレマン湖が霞む。

 穏やかなBGMと、落ち着いた楽し気な会話が幾重にも重なって漏れ聴こえるこのテラスデッキで、アレンはただ一人ぽつんと食事をしていた。


 湖まで広がる庭園をそぞろ歩いていたデヴィッドは、ぐるりとレストランを囲むテラスデッキに偶然彼の姿を見つけ、驚いて続く階段を足早に上った。


「こんなところでどうしたの? ヨシノは?」

 軽く眉をしかめ、デヴィッドはアレンの向かいに腰かける。アレンは、まずいところを見られたな、と戸惑っているような、曖昧な笑みを浮かべて――。

「部屋にいると思います」

「どうして、食事くらい一緒にしないの? 喧嘩したぁ?」

 アレンは大きく首を横に振る。

「仕事みたいです。たぶん、株とか為替とかの」

 どう説明したらいいのかとゆっくりと言葉を選びながら、アレンは答えた。

「だから部屋で食べるって」

 苦笑して残念そうに小首を傾げるその様子に、デヴィッドは呆れたように吐息を漏らした。

「似た者兄弟――」


 デヴィッドはウェイターを呼び手早く注文をすると、「アスカちゃんもだよ。久しぶりにヨシノに会ったのにさぁ、ちょっと顔見ただけで研究室に籠っちゃって――。レストランだって予約してたのに、キャンセルしちゃったよ。ヨシノもヨシノだよ! 俺もやることあるから、ってあっさり帰っちゃってね」と、さっそく唇を尖らせて愚痴りだした。

「あの兄弟、ほんと不思議。あんな仲いいのにさぁ、変に他人行儀だったり、かと思うと異常に過干渉だったり。訳判んない時があるよ――」


 くるんと夜の帳に包まれ始めた濃紺の空に目を遣って、デヴィッドは頬を膨らませる。


「アーニーも仕事、って言うしぃ、食事くらい楽しく食べたいじゃない、きみ、食べ終わるまでつき合ってねぇ」


 愚痴るだけ愚痴ると気が済んだとばかりに、にっこりと笑ったデヴィッドに、アレンもつられて、つい、ふわりと微笑んでいた。


「アスカさん、そんなにお忙しいのですか? 僕も会いたかったな」

 デヴィッドはつまらなそうに下を向いたアレンを慰めるように、くるくるとヘーゼルの瞳を輝かせて悪戯っぽく微笑む。

「アスカちゃんのパパさんが来たらね、みんなで食事に行くからさ、きみもおいでよ」

「でも、そんな家族団欒の席になんて――」

「ほんと、遠慮ばっかりだね、きみって!」

 おおげさにため息をつくと、デヴィッドはアレンの物怖じした面に向かって、ぴっと人差し指を突きつけた。

「アスカちゃんが、きみもぜひにって!」

 信じられないとばかりに、ポカンと口を開けているアレンを眺め、デヴィッドは声を立てて笑った。

「パパさん、優しい、いい人だよ。僕は日本でお世話になっていたからさ、よく知ってるんだ。そんな怖がらなくても平気」


 どうとも返答できなくて、じっと動かなくなってしまっていたアレンの肩が、背後からとんっと叩かれる。びくりと、はぜるように振りむく。


「お前、こんなところで何やってんだよ、ずっと待ってたのに」

 いかにも不機嫌そうな仏頂面の吉野が立っている。


 小首を傾げるアレンに、「部屋で食べるって言っただろ!」と吉野はさらに顔をしかめて告げた。

「え?」

「お前、いつまで経ってもこないし」

「心配して探しにきたんだ?」

 アレンの代わりにデヴィッドが、笑いを含んだ揶揄うような声音で訊ねた。吉野はポケットに手を突っ込んだまま、そっぽを向いた。


「まぁ、そうぷんぷんしないで座りなよ。僕の食事につき合ってよ」

「もうルームサービスを頼んだ」


 デヴィッドの朗らかな声に吉野は顎を突きだして不機嫌丸だしで答えたのだが、それでもどっかりと腰をおろした。


「お前、何笑ってんの?」

 吉野の腹立たし気な声さえ嬉しくて、アレンはにやつく頬を隠すように両手で覆う。

「また、夕飯、サラダとデザートで済ませようとしてただろ?」

 テーブルの上の食べかけのサラダボールを、吉野は睨めつけているのだ。

「食べる? 美味しいよ」

 アレンは弾むような笑顔で応えた。

「ルームサービスは何を頼んだの?」

「ペルシュのムニエル」

「ペルシュって?」

「レマン湖で採れるスズキ科の淡水魚だよ」

「それも食べるよ」

「冷めてるぞ」

「かまわないよ」

 にこにこと嬉しそうなアレンを見ていると、いつまでも怒っているのも馬鹿らしくて、吉野も、仕方ないなと肩をすくめた。


 じきにアーネストが来るから、もうつき合わなくていいよ、と言うデヴィッドをその場に残し、「あー、腹減った」とぼやく吉野と連れだって、アレンは屋内のレストランに続くガラス戸へ軽やかに足を運んだ。途中肩越しに振り返りにっこりして、背中にまわしていた片手をひらひらと振る。デヴィッドは親指を立てて微笑んで、軽いウインクを返した。




 ガラスで隔てられた室内から、じっとその様子を眺めていたマルセッロは、手の中のワイングラスをゆっくりと廻しながら小さく口笛を鳴らした。

「兄貴の方も美形だったけれど、これはまたびっくりするような美人さん(ディヴィノ)だな。それに、あの怖い兄貴よりずっと扱いやすそうなのがいい」

 唇を歪めて嗤うマルセッロに向かい合うルキーノは、黙ったままだ。

「あの美人さんが、マルセルのご執心の東洋人の弱点なのか?」

 探るように自分を見つめる視線に、ルキーノは表情の見えない黒いサングラスの下でにやりと微笑んでみせた。








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