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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
421/805

  ラボ2

「やっと戻ってきたと思ったらなんてざまだ」

 マルセッロ・ボルージャは、ベッドに横たわる自分と同じ顔の兄をちらと見て、暗く閉ざされた濃紺の分厚いカーテンを勢いよく次々と開け放っていった。

「眩しい、閉めろ」


 うつ伏せで枕に埋めた顔から、マルセルはわずかに目を眇めて逆光に立つ弟を見あげた。表情は見えずとも弟は皮肉に嘲笑っているに違いない。煌めく真昼の光線がその輪郭を包み、背中を向けて立つ弟のきびきびとした姿態を黒々と浮かびあがらせている。マルセルは、はぁ、と鬱陶しそうにため息をつき、くるりと反対方向に顔を背ける。


 兄の不機嫌になどおかまいなしで、マルセッロは窓を全開する。むわっとした熱気に室内の冷気が流れだす。

 言っても無駄だ、とマルセルももう文句をつけるのは諦めた。腹立たしさに顔をしかめたまま寝たふりを決めこむ。



「あの東洋人に振られたんだって?」

 部屋の中を光で満たし、そのうえ内面までも遠慮なく暴きたててくる弟に対して、なにも応えるものかとマルセルは唇を引き結んだ。マルセッロは、兄の蒼白い面にかかる漆黒の髪を無造作に掌でかき上げ、さらに表情までも確かめるようにと、曝けだす。


「ボルージャ家の後ろ盾を断るなんてな。だから、東洋人なんかに俺たちの価値が判る訳がない、って言ったろう?」


 価値が判らないんじゃない。彼には、僕ら程度では価値なんてないんだ――。


 高慢に見おろす弟に、よほどそう言ってやりたかった。だがそんなことを口にすれば、この馬鹿は本気で彼を殺しかねない。マルセルは白々とした視線を象牙色の高い天井に漂わせ、そこに金と紺青で描かれている唐草模様をじっと追いかけた。



「マルセル、今回はどれくらい出血した? 倒れるほど?」

 反応のないことに豪を煮やし、マルセッロは話題を変えてきた。

「黙れ――」


 ベッドに腰かけ覗きこんでくる図々しい顔を、マルセルは果てのない夜空のような深淵な瞳で睨めつける。そんな兄を気にする素振りすら見せず、弟は兄の手首に巻かれている白い包帯をほどいていく。手首の十字を確かめて、唇を当てる。



「お前はどちらにつく? ソールスベリー、フェイラー?」


 祈るようにじっと目を瞑っている弟に、マルセルはやっと声をかけた。

 マルセッロは驚いたようにぱちりと瞼を開き、伏せていた面をあげた。


「なんだ、あの東洋人は諦めたのか?」


  この揶揄うような視線が嫌いだ。神経を逆撫でしてくる、このまったりとした口調も――。

 マルセルは弟の手の中の自分の腕を引き剥がすように取り戻し、背中を向けた。


「怒るなよ」

 背を向けていてさえ、ニヤついた声が追い駆けてくる。

「――ソールスベリーには断られた。アレン・フェイラーには、まだ会っていない」

 言いながら、彼はマルセルの肩に手をかけぐいっと引く。不愉快そうに眉を寄せているマルセルの瞳に、予想通りの弟の顔が映る。


「お前はどうして欲しいんだ?」

 にやけた顔のわりには、真面目な声音だった。マルセルは訝しそうに眉をあげる。

「どうするって、選択肢があるような口ぶりだな」

「レンツォはなんて言っていた?」


 いまだに宗主になったロレンツォを幼い頃のように愛称で呼ぶ、弟のこの(わきま)えの無さが嫌いだ。


「その名で呼ぶな」

「何で? 俺たちは奴とだって同格だろ?」

「セッロ!」

 きつく窘める声音に、マルセッロは肩をすくめた。


「レンツォなんかより、お前が宗主になればいい。お前の方がみんな納得する」

「馬鹿を言うな!」


 苛立ちを露わにする兄に対してニヤリと唇の端をあげ、マルセッロは、強引にシーツの下のマルセルの腕を掴んで引きずりだした。その手首に、大仰に、うやうやしく唇を押しつける。そして妖しく輝く漆黒の瞳で、自分と同じ――、だがよほど青褪めて生気のない顔を見つめ返して囁いた。


「俺に神の祝福を」




 風切羽を十字に刻まれ切り落とされた。それがマルセルに課せられた運命だった。

 名前も、戸籍も、人生も、二人で一つ。じきに訪れる死を待つだけの泡沫(うたかた)の生。それで良かった。マルセルとマルセッロは二人で一人だ。この分身を一人残して逝かなければならないことだけが、彼のたった一つの気がかりだったのに――。

 今は、神の国に飛び立つための翼の代わりに生を授けられ、刻印が地上にその身を縛りつける。

 自分と寸分違わぬ姿を持つこの弟が、一族の癌。彼はこの弟を管理し、その羽を切り落とし鳥籠に閉じ込めるために、神に生かされている。


 未来は暗黒だ。

 ニケは、マルセルの傍には降りたってはくれなかった。


 それでもまだ、マルセルは諦める訳にはいかないのだ。そのためだけに彼は生かされ、いまだ存在しているのだから。


 それなのになぜ、彼は知らされるのだろうか。



 神は、人に祝福を授けるために存在しているのではない、ということを――。

 




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