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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
420/805

ラボ

 アーカシャ―HDの研究所は、スイス、ローザンヌにある。中世の面影をそのままに残す街並みと、レマン湖を眼下に見おろす風光明媚な土地である。だが観光地としてだけでなく、政府政策の一環として、モダンで斬新なデザインで知られている連邦工科大学とパートナーシップを組み、その敷地内に誘致された世界中の企業がひしめき合うサイエンスパークがあることでも、この街は世界的に認知されているのだ。


 そのサイエンスパークの一角である、芝生を突っきって結ばれる長方形の棟と棟の間の小径をぬけた先の最奥の一棟が、目指すアーカシャ―HDの研究施設だ。


 受付で要件を告げた吉野は、すぐに隣接する応接室に通された。白い壁に、アイボリーの応接セットが置かれただけの簡素な部屋だ。ロンドン本店の重厚感溢れるクラシカルな雰囲気とはまるで(おもむき)が違う。

 吉野はソファーに座って足を組むと、壁一面ガラス張りの窓から見える、あまり手入れの行き届いているとはいえない芝生に勢いよく伸びる雑草や、申し訳程度に植えられている観葉樹などを、ぼんやりと眺めていた。


 芝くらい刈ればいいのに――。


 そんな、どうでもいいことばかりが、やたらと目についていた。


「吉野、」

 振り向くと、約一ヶ月ぶりに会う飛鳥が立っている。研究所らしく、白衣を着ている。

 唇を引きつらせて、吉野は微笑んだ。

「飛鳥、ごめんな」

 立ちあがった吉野の、テーピングされた頬の下辺りの顎骨に、飛鳥は手を伸ばしてそっと触れた。

「どうしてお前が謝るの? ヘンリーにしても、おかしいよ。悪いのは僕なのに」


 吉野は飛鳥の肩に、こつんと額を当てる。


「そうじゃないよ。ごめんな。俺がドジ踏んだんだ。読み違えたんだよ」

「違う、僕のせいだ。僕が、パリに行けば良かったんだ。僕が操作するべきだったんだよ――」

 弟の頭を抱えるように撫でながら、飛鳥は静かな声音で呟いた。


「駄目だ!」

 いきなり吉野は頭を跳ねあげ、飛鳥の強く光る鳶色の瞳を覗き込む。

「飛鳥は絶対に表には出るな! ヘンリーは、ここへは来てないのか?」

 急に怒りだして声を荒げる吉野に当惑し、飛鳥は訝しげに小首を傾げた。

「またサラが我儘言って、ヘンリーを放さないのか?」

「そんな訳ないだろ! なんて言い草だよ! サラだってお前のことをすごく心配してくれてたのに!」

「じゃ、あいつ、今どこにいるんだよ? 飛鳥は誰とここまで来たんだ?」


「――マーシュコート。あんな事件が遭ったばかりなのに、彼女を一人にしておけないだろ……」


 予想通りの返答に、吉野は大袈裟にため息をつく。

「僕は、ロンドンからアーニーと一緒にここまで来て、デヴィッドと合流したんだ」


 不機嫌さ丸出しで吉野は眉をしかめている。


 ずっと心配していたのに、なんなんだ、このふてぶてしさは! 


 だが内心の腹立たしさ以上に、飛鳥は、いつもの吉野らしさに安堵していた。そんな彼の自然と緩んでくる口許に、今度は吉野の方が怪訝そうな顔をする。


「なんだよ? 何がおかしいんだ?」

「お前が馬鹿で良かった」

 とうとう堪えきれずにクスクスと笑いだした飛鳥を、吉野はますますきつく睨めつけた。

「ひどいな! そりゃ、俺、馬鹿だけどさ。はっきり言うことないだろ。傷つくぞ!」

「誰が!」


 飛鳥はソファーに腰かけ、自分の横をパンパンと叩いて吉野に座るように促す。


「馬鹿な子ほど可愛いっていうだろ」

 目を細めて笑いながら、吉野の頭をくしゃくしゃと撫でる。そんな兄の子ども扱いに顔をしかめながらも、吉野は甘んじてされるがままに受けている。こんなことで飛鳥の気持ちが晴れるなら、いくらでも無邪気な弟でいてやる、そんな想いでいたのだ。


「親父は? 来ているんだろ?」

「チューリッヒの工場の方だよ。すれ違いだな。お前は、いつまでここにいる? 明後日にはこっちに来るんだけどな」

「それまでいるよ。親父に会うのも久しぶりだしな。この顔のこと知ってるんなら謝らなきゃいけないしな」

「ほら、なんでだよ? なんでお前が謝るの?」

 話が振りだしに戻り、飛鳥は不思議そうに吉野を凝視した。

「父さんと母さんに貰った大事な身体を傷つけたからだよ」


 まるで小さな子どもが告白でもするかのように、恥ずかしそうに呟かれた予想外の返事に、飛鳥は目を瞠った。そんな兄の反応に、吉野はますます照れ臭そうに目を逸らして俯く。

「怪我ばっかしてきたお前が、そんなふうに言うなんてな」


 俯いたままのその頭を、飛鳥はぎゅっと抱き寄せた。


「不可抗力なら言わないよ。でも今回のはさ、ちょっと考えれば避けられた事なんだ」

 吉野のくぐもった声が、皮膚を通して直接飛鳥の心に響くようだった。

「もう二度とこんなドジは踏まない。飛鳥に心配かけない」

「約束だよ」

 飛鳥は優しく呟いた。


 何度破られたか判らない約束なのに、また、約束だよ、と念を押す。

 他に言いようがないから――。

 その度に吉野は頷いて、約束する、と繰り返して。


 今まで交わしてきた吉野との約束の一つ一つ、そのどれをとっても、初めから破るつもりで交わしたことはない、そう信じている。信じていないと苦しすぎる。心配で、心配で、胸が押し潰されそうになる。だから、どこにでも飛んでいく吉野のその自由な翼を切り落として、鳥籠の中に閉じ込めたくなるのだ。そう、――サラのように。


 飛鳥は苦笑して、そんな自分の想いを振り払うように小さく首を振り、深く息を漏らした。そして吉野から身体を離し、まじまじとその顔を見つめた。


「テープの下の傷って、どんななの? 自分で見た? 抜糸はいつ?」

「抜糸はいらないんだ。皮膚に吸収される糸だって。傷は、ほらヘンリーの腕のと似てる」

 吉野は頬のテープの上にすっと指を走らせる。

「見ていい?」

「いいけど、今はテープの替えを持ってないんだ。一ヶ月は陽に当てるなって言われてるしな。傷口の皮膚が変色するからって。ホテルに戻ってからでいい?」

 あっけらかんとした口調だ。飛鳥はなぜだかほっとして、柔らかく微笑んで頷いた。

「お前なら、そんな傷だって似合うよ。きっと海賊みたいでカッコいいって」


 そうかな、と吉野は、まんざらでもなさそうに鼻の頭に皺を寄せてにっと笑った。右目を眇めるちょっと歪なその笑い方さえ、飛鳥にはやはり、吉野らしく思えたのだった。




 

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