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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
414/805

  追跡3

 柔らかなクリーム色の壁に囲まれた音楽室で、どこか浮かない表情のサラは、ソファーに身体を丸めてあてどなく視線を漂わせていた。

 だが小さなノックのあと、静かに開けられたドアから現れたヘンリーを見て、ホッとしたように相好を崩す。


「アスカは、もう落ち着いていた?」

 隣に腰をおろしたヘンリーの首に、サラは腕を廻しぎゅっと抱きついた。

「平気だよ、サラ。いつものアスカだった。彼は強くて優しくて、いつだって自分の想いよりも他人(ひと)を気遣って――」

 ヘンリーもサラをしっかりと抱きとめて、安心させるようにその背中を優しく擦る。

「とてもサラの言うように、取り乱していたなんて思えなかった。冷静だったよ」


「本当よ! 一緒に中継を見ていたんだもの。映像の投影が数十秒遅れたでしょう? それでアスカがおかしい、て言って。警察が入ってきてやっとカメラが会場のあちこちを映して、映写室のガラスがメチャクチャになっているのを見て、アスカ、いきなり『ヨシノ!』って叫んで――」

 そのときの情景をまざまざと思いだしているのか、サラは小刻みに震え、ヘンリーに頬を擦りつけるようにして訴えかける。

「うん、それで、」と、ヘンリーはサラを落ち着かせようと、その背をとんとんと優しく叩いた。

「部屋を飛びだしていこうとするから、マーカスが押さえて、それでもアスカが泣いて、『ヨシノ、ヨシノ、』って暴れるから、」

「眠らせたんだね」

 サラはこくんと頷いた。眠らせた、と言うよりも当て身で気絶させたと言う方が正しいのだが。


「ずっと、アスカの傍にいたの。アスカが眠っている間にロレンツォ・ルベリーニから電話があった。マーカスがでて話していた。ヨシノは無事だって」

「アスカ、起きてからその人やヘンリーに電話して、でも全然通じなくて、その後また同じ人から電話があったの。ヨシノは病院にいるって。それから怪我の具合とか話していた。それで、アスカ、また泣きだして、『一人にしてくれ』って」

「うん」

「アスカ、可哀想……。私だって、ヘンリーに何かあったら生きていけない。ヘンリーがあそこにいなくて、本当に良かった……」

「サラが心配するのは判っていたもの。きみのためにも、僕は決して危険な真似をしたりしないよ。安心して」

 サラは、ヘンリーに廻した腕にぐっと力を込めた。

「サラ、」

 ヘンリーは少し体を引いてサラの額に優しくキスを落とす。

「もう行かなきゃ。ロンドンの本社に顔をだして、またすぐ戻ってくるから。それまでアスカのこと、頼んだよ」

「すぐに帰ってきてね」

「約束する」

 不安気に自分を見つめるサラのこめかみに、もう一度キスを落としてヘンリーは立ちあがった。



 ルベリーニ……、やはり、あの考えなしの馬鹿だった。吉野の動向を飛鳥に漏らしていたのは! 飛鳥のことを何も判っていないくせに!


 ヘンリーは小さく舌打ちをして、長い廊下を足早に玄関へと向かう。






 アテネ国立考古学博物館は、ほかの観光地とはいくぶん離れた場所にある。そこに真っすぐに向かうのかと思っていたのに、吉野はどんどんと怪しげな脇道に入って行く。数歩前を歩くその背中に、マルセルは堪らず声をかけた。太陽がじりじりと照り付ける昼下がり、とにかく暑かったのだ。あまりに暑くて、彼の後をついて歩くのがやっとだった。


「ヨシノ、」

 だが、肩越しに振り返った吉野を軽く睨んで小さく息を漏らすと、マルセルは歩調を速めて彼の右横に並んだ。くるりと首を廻した吉野は、唇の先をにっとあげて彼を揶揄う。

「表情が読めないと不安になる? それとも、醜い顔を見たくない?」

 マルセルは心外だと言わんばかりに眉根を寄せる。

「僕はきみの傷なんて気にしたりしないよ」

「もともと大した顔でもないしな」

 吉野はひょいっと肩をすくめる。


「それでお前、どこまでついてくる気? 博物館はそっちの道だろ?」

 吉野はちょっと小首を傾げて顎をしゃくる。

「きみはどこに向かっているの?」

「お前、俺についてくる気?」

 吉野は真っすぐに前を向いて歩いている。


「え?」

 言われて初めて、マルセルは吉野の視線の先に目を遣った。

「ここに入るって?」

 眉をしかめて、信じられない、と首を振り、吉野を見つめ返したマルセルに、彼は唇を歪めてクックッと笑い返した。


「お前には無理。だから、じゃあな」

 そう言うなり地を蹴って走りだしたその背中を、マルセルは茫然と見送るしかない。少しの間を置いて、その脇を数人の男たちがバラバラと駆けていく。


「坊ちゃん」

 その内の一人がその場に残った。

「ルキーノ」

 目の前に立つ黒いスーツの男を、マルセルは厳しい目つきで睨めつけた。

「今度彼に手を出したら、僕にだって考えがある」

「私ではありませんよ。そんなことをしたらこっちの首が飛びます」

 ルキーノと呼ばれた男はニヤニヤと笑いながら、自分の咽喉元を切り裂くようにピッと指先で一直線に指ししめす。


「それに私は、あの東洋の小僧っ子のことをなかなか気に入っていますよ。さすが坊ちゃんが見込んだだけのことはある」

「お前に言われても嬉しくない。宗主が認めてくれている訳ではないのだろう?」

「どうでしょうね。我々は御守りを仰せつかっているだけですからね」

 唇を突きだし大仰に首をすくめるルキーノを苦々しそうに一瞥し、「じゃ、お前も行けよ」と踵を返したマルセルのあとに半歩遅れて、ルキーノは悪びれもせず悠然とつき従っている。

「この地区を坊ちゃん一人では歩かせられません。ホテルまでお送りします」



 しばらく黙ったまま下を向いて歩いていたマルセルは、不愉快そうに顔を歪めたまま傍らのルキーノを見あげた。


「彼はどういうつもりなんだと思う? あんな汚らしい、密売人と売春婦のたむろする移民の溜まり場に入っていくなんて……」

「アムステルダムにドイツ、パリでもそうでしたよ。そして見事にテロ情報を探り当てた。おまけに狙撃されることすら知っていたようですね、あの坊主は。開演前に、警護の男もアーカシャ―HDの関係者も、すべて部屋から追い払っていましたからね。なにもかも自分一人で行う腹積もりだったのでしょう」


 ルキーノは黒いサングラスの下で含み笑いながらつけ加えた。


「私は当主よりも、あなたにつきますね」


 マルセルは横目でチラリと長身で大柄なこの男を一瞥し、また口をへの字に曲げて、おもむろにため息を吐きだした。


「あのプライドだけの能無しの馬鹿――、なんとかしないとな」





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