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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
408/805

  距離5

 パリ国際通信機器見本市の二日目は早朝から曇り空だ。午前十時の開場前にはとうとう雨も降りだして、正面メインゲートの前には一般入場者の列がつくる色取り取りの傘の花が咲き乱れている。



 その様子をホテルの自室のテレビ画面の中で眺めていたアレンは、心持ち眉根を寄せ、傍らのデヴィッドを振り返った。その視線に敏感に気がついた彼は、微かに頷く。さすがに今日はいつもの彼らしい笑顔もない。


「始まった。開場だ」

 メインゲートを通り抜けた正面に、広大な敷地を贅沢に使ったモダンなメイン会場が見える。横長の長方形の建物のガラス張りの壁面には、いくつもの細い鉄柱が渡されている。その中央には、巨大なポスターが飾られている。宇宙に漂うアレンの全身像が一枚の斜め半分を締め、残る半面には白一色の上に見本市のロゴが描かれて、その境界をモザイクのように混じり合わせている。






「さすがだね、デヴィ――」

 画面上に映された、とても短期間で仕上げたとは思えないポスターの完成度に、飛鳥はため息をもらしていた。サラは黙ったまま、モニター数台でそれぞれ放映されている各国のニュース画面を眺めている。 

 別画面ではテレビカメラは会場内に移り、波のように押し寄せている人の入りを映しだす。

「ヘンリーは……」

「心配いらない。大丈夫だよ」

 深く息をつきながら、飛鳥は自分自身にも言い聞かすように応えた。

「やれることは、すべてやったんだ。後できることは祈ることくらいだ」





「ヨシノ、」

「ん? 何、アリー?」


 狭い映写調整室で呼びかけられた声に、吉野は机いっぱいに広げられた各パビリオン配置図から目を逸らすことなく応えた。


「俺の仕事は、お前を守ることだ」

「分かっているよ。でもな、アリー、俺も飛鳥を守るためにここにいるんだ。命だけじゃない、飛鳥の名誉も、自尊心も、その矜持も、飛鳥の大切なものすべて守るためにな。だから心配いらない。飛鳥の大切なものの中に、俺の命も入っている。俺は絶対に自分の命を粗末に扱ったりしないよ」


 何でもないことのように静かに喋る吉野に、アリーはドアに寄りかかったまま、それ以上何も言えなかった。





「やっぱり、僕もあそこへ行きたい」

 じっと画面を睨めつけて、アレンは憮然と呟いていた。


 開始直後のニュースが終わり、会場レポートのネット中継に切り替えたところだ。

 画面が捉えているメイン会場内は、鉄骨の組み合わさった高い天井から吊り下げられた空色がかった半透明の仕切りによって、見渡す限りの広々としたフロアを区切られている。そうして大まかに分けられた各ブース内はさらに細かく、大人の背丈程度の白壁で部屋状に区分けされている。


 白を基調にした清潔感のあるどことなく無機質なこの空間では、世界中から出展しているIT関連機器会社の新製品、新技術を披露するために、個性的に色づけられ、その斬新さ、有用さ、新進性を競い合っているのだ。

 その中でも、入り口正面に陣取られた他の何倍ものスペースに渡るガンエデン社のブースの鮮やかな赤に白抜きの枝を配したロゴマークは、ひときわ目立っている。



「駄目だよ」

 デヴィッドの声はあくまで冷たい。

「ヨシノがいるのに……」

「駄目。ヘンリーも、アーニーだって、あそこにいるんだ」


 ガンエデン社のブースでインタヴューしているキャスターのハスキーな声を、聴くでもなく聞き流しながら、デヴィッドは悔しそうに唇を噛む。


「今日の僕の仕事はね、ここできみを守ること。ヨシノに約束にしたんだ。ヘンリーにもね。それからみんなが帰ってきたら、美味しい紅茶を入れてあげるんだ。ニューヨークの連中には、マシン式じゃないドリップ式のコーヒーをね。それから、――それよりもビールかなぁ。僕は飲まないけどね。『ロンドンプライド』じゃなくて、『サミュエル・スミス』をね、用意しておかなきゃぁ」


 無理に口角をあげ、デヴィッドはくしゃっとアレンの頭を撫でた。


「きみからみたら、僕やヘンリーは、ずっとずっと大人に見えるかも知れない。でも本当は大した差はないんだ。僕だって怖いし、不安だっていっぱいで、上手くいかなくて、悔しくて泣きたい時だってたくさんあるんだ。でもね、きみと僕たちの違いはね、本当にしなきゃいけないことを、守れるかどうかって事なんだ。感情に流されずにね。ヘンリーに一歩でも近づきたいのなら、ここでみんなの帰りを待つんだよ。いいね?」


 ヘンリーと同じ色のアレンの瞳を覗きこんで話しているデヴィッドの方が、よほど泣きだしてしまいそうに見えて、アレンは驚いてただ何度も、こく、こくと大きく頷き返すしかなかった。




「アリー、これ、アレンに届けてきてくれ」

 差し入れされたバケットサンドを部屋の隅で頬張りながら、吉野は白い封筒をアリーに差しだした。だが受け取ろうとはせず、突っ立ったまま睨めつける彼に、吉野はもう一度同じ言葉を繰り返す。アリーは吉野から顔を逸らし、映写調整室の横長のガラス窓から見える客席を振り返り、眺める。


 講演会の開演まで、あと三十分。ちょうど開場され、続々と客席が埋まっていくところだ。


「今すぐに行けば、終わるまでに帰ってこられるだろ?」

 栗鼠(りす)のように片頬を膨らませて口を(せわ)しなく動かしながら、くいっと鳶色の瞳を向けた吉野に、アリーは仕方なく手紙を受け取る。せめてもの抗議として、思いきりしかめ面で。


「返事、貰ってきてくれよ。すごく大切な用なんだからさ」


 にっと笑う吉野にアリーは鷹揚に頷いて、この狭い、どこか息苦しい箱部屋を後にした。







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