距離3
遅い朝食を終えてアレンたちがホテルの会議室に戻ると、コズモススタッフの人数がさらに増えていた。ロンドンからの人員だけでは足りず、ニューヨークにも応援要請したのだそうだ。会議用長机もソファーも追加され、ガランとしていた室内が急に狭くなったように感じられた。
どこか押し殺したような声で交わされているいくつもの会話が混じり合う中、最奥の一角を仕切る衝立の陰から出てきたデヴィッドが、ピリピリとした緊張を破る素っ頓狂な声でアレンを呼んだ。
「ア~レ~ン! パリを満喫してるぅ?」
いつもと変わらないその笑顔にアレンは大きく目を瞠り、次いでにっこりと微笑み返した。デヴィッドは駆けよるとクシャリとアレンの頭を撫で、そのまま彼の腕を取って部屋をでた。そのドアの前で、デヴィッドは兄と二言、三言会話を交わす。アーネストは、「頑張ってね」とフランス語で言うと、ぽんとアレンの髪を撫でて会議室に戻っていった。
ほぅっと、アレンの口からため息が漏れる。
「どうしたの?」
顔を覗きこまれ、アレンは何ともいえない様子で微笑み首を傾けた。
「学校とは違うんだなと思って」
「夢だの理想だのいう前に、生活かかってるもんねぇ。――みんなの」
「みんなの……?」
「雇用を創出するのが僕たちの義務。ま、僕は、楽しいからやってるんだけどねぇ」
デヴィッドの手が安心させるようにポンポンと、アレンの肩を叩いた。
「だからさ、そんなに緊張することでもないよ」
迎えにきたフィリップに連れていかれたのはどこかのスタジオで、アレンは言われるままに着せ替え人形のように服を着替えさせられ、写真を撮られた。事前に「笑わなくていい」と言われたし、どうしていいかも分からなかったので、聞こえてくる指示通りにぼんやり立ったり、座ったり――。
服は替えても、兄に貰った右手の手袋はそのままだ。移動途中の車の中でアレンがその経緯を話すと、デヴィッドに涙を滲ませて大笑いされた。
『エリオットのね、新入学年生のときにさぁ、ヘンリーの手にキスして求婚した馬鹿がいてねぇ。それから握手するフリをしてヘンリーの手にキスするゲームが流行ったんだ。フランクがヘンリーに贈ったんだよ、白手袋。手袋の上からなら少しはマシだろって。フランク・キングスリー、知ってるかい? 弟がいるんだろ? きみの同級に。僕は寮が違ったし、彼とはほとんど面識もなかったんだけどねぇ。あの頃のヘンリーの一番の親友だったんだよ。アーニーと三人で、いつも一緒につるんでたって!』
学校が始まったらフレデリックに話してあげよう、とアレンは顔をほころばせてその話を聞いていた。
明るすぎるライトに照らされシャッター音が響く中、アレンは取りとめのないことばかりを考えていた。飛び交う早口のフランス語は小鳥のさえずりのように頭上を通過していくだけ。注意を払えば聞き取れないこともなかったけれど、どうでも良かった。そんな中、フィリップが心配そうにデヴィッドの横に立っているのが、ふと目に入る。
どうして彼が同行することになったかというと、取材を受けるIT雑誌も、なぜか女性誌も、彼が大株主の会社だから、なのだそうだ。
ヘンリーの代わりにインタビューを受けるにしても、会社のことは何も知らないアレンのために、デヴィッドがそれらしく記事の草稿を仕上げてくれていた。
――いちおう、きみが喋ったことになるわけだから、頭に入れておいてねぇ。
こういった普通は通らない提案を通すために、大株主である彼の出番ということらしい。確かにCEOであるヘンリーならともかく、いち広報担当者であるデヴィッドとイメージキャラクターにすぎないアレンに、役員クラスが出向いて応対したのも、フィリップの顔色を伺ってということだろう。こんな子どもに、と思ってしまうけれど、子どもだからこそ、つまらないことで機嫌を損ね、自社株をどう扱われるか判らない怖さがあるのかもしれない。もっとも本当に怖いのは、彼の後見人のルベリーニなのだろうが――。
そんなことをつらつらと考えているうちに、いつの間にか撮影も終わっていた。
「お疲れ様!」
次々に声をかけられる。当たり前のようにハグしようと、大きく広げられたカメラマンの腕とアレンとの間にデヴィッドがさっと入って、そそくさとその場から連れだしてくれた。
「こんな感じで、あと三日間頑張ってねぇ」
帰路につく車の中で、デヴィッドがアレンの頭を、ご苦労様、と撫でている。嬉しそうに目を細めて頷くアレンを、横からフィリップが不思議そうな瞳で見つめている。
「何?」
なんとなく目が合ってアレンが訊ねると、フィリップはますます驚いたように、つぶらな瞳をさらに大きくして見つめ返した。
「あなたが触られても怒らないのは、ヨシノだけだと思っていました」
ついっとアレンに顔を背けられ、フィリップは、また失言してしまったことに下を向いた。間に挟まれたデヴィッドはケラケラ笑い、とりなすようにアレンに代わって答えてやった。
「そんなことないよ~。アレンはぁ、アスカちゃんに一番懐いているもんねぇ。それに学校の友達も!」
肩に手を置いて自分を振り向かせたデヴィッドに、アレンは嬉しそうに微笑んで頷いていた。
翌日も、前日と同じような一日だ。女性誌の取材が予定よりも一件増えていた。普段は一切の取材も写真も断っているアレンが、今回のイベントのために特別に取材を受けるというニュースが一気に知れ渡り、IT関連以外からの申し込みがひっきりなしなのだそうだ。相変わらず、記事の方はデヴィッドで、アレンも下手なことを言わないようにと、むっつりと黙っているだけだったが。
「疲れた――」
ホテルの自室に戻るなり、アレンはベッドに倒れこむように横たわっていた。ポケットにあるTSネクストが鳴っている。
「起動。――あ、アスカさんだ」
ごろりと仰向けになったまま、顔にかかる髪をかき上げアレンは眼前に浮かぶ空中画面に微笑みかけた。
『どう? 元気にしている? デヴィから電話をもらったんだ。きみが、すごく頑張ってくれてるって。お疲れさま』
飛鳥からの優しい言葉に、アレンの口許は自然にほころんでいる。
「正直、疲れました。昨夜、あまり眠れてなくって」
『大丈夫? 無理はしないで』
飛鳥さんの、こんな時のちょっと眉根を寄せた目元が吉野に似ている。
アレンは画面の中の飛鳥に吉野を見つけふわりと微笑んでいた。次いで、あっと気づいたように小さく首を振る。
「きっと今夜は大丈夫です。昨日は、あまりに衝撃的で夢に見てしまったけれど。たぶん、もう平気です」
『夢って?』
「アスカさんの作ったあの3D映像が怖くて。映像だって判っていても、身体がすくんでしまって――」
『きみも見たの? いつのやつ?』
「えっと、パリに戻ってきた翌日の朝です。それ以降は見ていません。皆、殺気立っているし、邪魔になるので兄にも会っていないくらいで……」
『どんな夢だった?』
「そのままです。すごくリアルで夜中に目が覚めて……」
恐怖で目が冴えたのだ。背中にびっしょりと汗をかいていた。あまりに強烈な映像を見たせいだとすぐに納得できたので、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを一気に飲んで、気持ちを落ちつけるために好きな曲をかけっ放しにして眠った。今夜は初めから何か聞きながら眠ろう。きっとその方がいい。
アレンがぼんやりと思い返しながらTS画面に視線を戻すと、飛鳥も考えこむように黙りこんでいた。いつも優しく穏やかな鳶色の瞳が、吉野みたいな強い光を湛えている。アレンは驚いて息を呑んでいた。
「アスカさん?」
「ごめんね、アレン。いつもありがとう。きみの存在に僕はいつも助けられているよ」
飛鳥は普段と変わらない優しい微笑みを浮かべて、もう一度アレンを労い、おやすみ、と電話を切った。
アレンは一瞬感じた不安と緊張をその労いの言葉で溶かされ、役立てている事実も相乗的に嬉しくて、ニコニコと枕を抱きしめて安心して眠りについた。
昨夜のような悪夢は、もう見ることはなかった。




