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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
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  一族7

 プールサイドで、素肌にまといつくシャツの裾をしぼっているアレンに、フィリップがテラスの欄干から身を乗りだして大慌てで何か言っている。ついで、とっくにシャツを脱ぎ捨てて泳いでいる吉野と二言、三言喋っていたかと思うと、またすぐに白亜の建物内へと踵を返す。そんな彼はまったく意に返さず、アレンは飽きることなく泳ぎまわっている吉野を眺めていた。


 水中にいる吉野はとても楽しそうだ。皆が、泳いでいるときの彼が一番彼らしい彼だ、と言っていたのが分かるような気がする。水中で呼吸する魚が陸へあがったら苦しくなるのは当然なのだろう――、と妙に納得しながら。


 フィリップはすぐに戻って来て、両手に抱えたバスローブと大判のタオルを真っ赤になってアレンに手渡した。アレンはそのタオルで髪を拭きながら、クシュン、クシュンとくしゃみを連発させる。身体が冷えきっているようだ。


 吉野がザブリとプールからあがった。

「部屋に戻るぞ」

 デッキチェアに置いてあったバスタオルを無造作に掴んで肩に羽織る。フィリップは心配そうにアレンを見送り、「ゆっくり休まれて下さい」と申し訳なさそうな顔で言う。





 のんびりバスタブに浸かっているうちに、アレンは危うく眠りかけていた。ぼんやりと夢うつつのなかバスローブを羽織って客室に続くドアを開ける。

 吉野が窓辺のソファーセットでむしゃむしゃと食事している最中だった。

「ほら、お前も食えよ」

 そう言って手招きするいつもと変わらない吉野を見て、アレンは思わず笑いだす。

「なんだよ?」

「きみが食べているところを見るとほっとする」

「なんだよ、それ」


 クスクス笑いながら、アレンは長ソファーの背もたれに頭をもたげ目を瞑る。


「お前、髪の毛くらい乾かせよ」

 伸ばされたその手に、アレンはくいっと眉根をしかめた。

「きみの手、生臭い」

「エビの殻を剥いてたからだな」

 吉野はくしゃっと笑ってアレンの額を手の甲で小突く。

「洗ってくるよ」



「きみのことを教えて。訊いたら教えてくれるんだろ?」

 バスルームから戻ってきた吉野にタオルで髪を拭いてもらいながら、アレンはまるで現実味のない意識で笑いながら訊いていた。

「なにが知りたいんだ?」

「なんでも」




「おい、眠いんならベッドに行けよ」

「うん」


 吉野の声は柔らかくて気持ち良い――。


「ほら」


 夢現で肩を叩かれ、差しだされた手を握ってアレンは立ちあがる。そのまま隣室のベッドルームに引っ張っていかれる。


 ベッドに寝転んで吉野を見あげる。


「寝つくまで傍にいてくれる?」

「頭、撫でていてやるよ」


 全身が気怠く、わずかに動かすのも億劫なほど重い手足に、意思に反して意識を手放して眠りに落ちてしまいそうだ。


 せっかく吉野がいてくれるのに。何でも訊いていいって言ってくれたのに――。


 ベッドの端がきしりと沈む。

 優しく髪を梳いてくれる指先から、かすかに石鹸の香りがする。


「きみの言う通り、好きとは違うのかもしれない。でも、僕は、きみを、誰より信じている」


 口に出してから、アレンはまた後悔していた。


 今日の僕はどうかしている……。


 吉野に気づかれないように小さく唇を噛んだ。彼の反応を見るのが怖くて、もう目が開けられない。


 だが吉野は変わらずに髪を梳いてくれながら、「うん、ありがとうな」と言ってくれた。


 全身の緊張が解け、涙が滲んでいた。咽喉の奥に力を入れて我慢していたら、アレンはいつしか今まで味わったことのない、優しい穏やかな暗闇の中に落ちていた。






 海岸線沿いに弧を描く白い光が連なり、緩やかな起伏でオレンジ色の灯が迫る。白亜の邸宅の前面に広がるテラス階段をプールとは逆方面に下り、整備された庭の最果てにある東屋で、吉野はぼんやりと眼下に広がる夜景を眺めていた。


「タキシードの替えはないの?」

「あれ一着だよ」

 いつものTシャツにジーンズ姿を、現れたヘンリーに開口一番クスリと笑われ、吉野は両眉をあげて肩をすくめた。

「弁償するよ」

「いいよ、いらない。面倒くさい。また何回も仮縫いにいくなんて冗談じゃない」

「そうはいっても、必要だろ?」

「いるかなぁ……。制服じゃ駄目?」

「駄目だね」

 吉野は思い切り下唇を突きだしてため息を返す。


「俺、相変わらずあいつのキレるポイントが判らないよ」

 吉野のそんな愚痴に視線を伏せて含み笑うヘンリーに、吉野は腹立たし気な視線を向る。

「何だよ?」

「いや、兄弟だなと思って」

「あんたとあいつが?」

「きみと、アスカが」

「俺と飛鳥は似ていないよ。飛鳥は察しがいいもの」

「そうかな」


 くいと顔を傾けたヘンリーは話を切り替えるように、真剣な眼差しで笑みを消す。


「きみ、どうしてマルセッロ・ボルージャが双子だって気づいたの?」

「さっきの奴の方がマルセルより声が一音低いんだ。それに顔つきも、骨格も、筋肉のつき方も違う。全然違うよ」

「ああそうか、きみ、正確に記憶しているんだったね」

「わざわざ向こうの方から会いにきてくれたんだしさ。それで、どっちが本物?」

「今日来ている方だよ」

「両方来てるよ。広間に出るのは交代交代みたいだけどね」

「きみに絡んでいた方」

 その返事に、吉野は軽い吐息を漏らす。

「面倒くさ」

「でも、ロレンツォと並ぶ権力があるのはもう一人の方」

「もっと面倒くさ――。まぁ、いいや。それで、グレンツ社の買収いつ発表するの?」

「見本市の初日だよ。その節はご苦労さま」

「どういたしまして。これで欧州の通信網が整うんだ、ガン・エデン社に対抗できるようにしっかりやってくれよ、CEO」

「言われるまでもない」



 吉野がマリーネ・アッシェンバッハから手に入れた株式で、欧州最大のモバイルネットワークオペレータ、ドイツ・グレンツ社の買収が完了した。これで、これまでグレンツ社の提供する移動通信サービスを借りてサービス提供していたTSが、より整った通信環境で世界に打ってでることができるのだ。


 手始めに、この欧州、パリから!


 吉野は一つ一つ確実に布石を打ち地盤を固めていく。飛鳥のために。

 ロレンツォに言われるまでもなく、そんな吉野をヘンリーが手放せるはずがなかった。


「なぁ、スイス・ルベリーニ、来ている?」

 ふと思いだしたかのように尋ねた吉野に、ヘンリーは訝しげに首を振る。

「だろうな。じきにスイスも陥落(おち)るからさ。楽しみにしといて。やっぱ一番面倒くさいのがスペインだな」


 そう言いながら、吉野は自信満々でクスリと笑った。





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