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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
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  一族5

 ニースはとても美しい街だ。開放的な南国の太陽と曇りのない青空、強い陽射しに焼かれる緑が、アレンに故郷のロスを思い起こさせる。街並みはまるで違っているけれど。

 フィリップの別荘は市街地を見おろす高台にある。窓からの眺めは紺碧の海。海岸沿いをレモン色の壁とオレンジ色の瓦屋根が連なっている。

 待ちわびた電話の着信音にアレンはほっとしたように笑い、眼下に広がる景勝地から目を逸らして、窓際の肘掛椅子から立ちあがった。



「ヨシノ、」

 戻って来た吉野の部屋をノックする。彼は空港からここにくる途中でいきなり車を降りて、サウードが紹介した護衛とどこかへ行ってしまったのだ。夕方までには戻る、とだけ言い残して。

 返事の声がしてドアを開ける一瞬の間は、いつも緊張する。いったい、いつになったら慣れるのだろうか、と自分でも苦笑しながら、アレンはドアノブを捻る。


「アスカさんから預かってきたタキシード」

 白一色の部屋の窓枠に腰かけ、外を眺めていた吉野が振り返る。

「タキシード? 制服でいいって言ったのに」

「そうはいかないよ。ドレスコードは、」

「分かってるって。嫌いなんだよ、タキシード。それさ、作るときデヴィについてきてもらったんだけどさ、あいつ、俺がブラックタイをすると、犬に首輪つけたみたいだって言うんだ。酷いだろ? そりゃ、似合わないんだろうけどさ……」

 唇を尖らせてぶつくさと文句を言う吉野が、なんだか可愛い。アレンはクスクスと笑いながらタキシードを渡した。

「それは――、僕も見てみたいな、首輪をつけたきみ」


 ため息をついて、吉野はベッドの上に受けとった服を放り投げる。


「シャワー浴びて着替えたら行くから。下、もうヘンリー来てるらしいぞ」

「ん。招待客が増える前にお逢いして尋ねてみる。僕もケンブリッジの屋敷にいられないのなら、滞在を伸ばしてパリの美術館を見てまわるのもいいかな、って思っているんだ」

「屋敷にいられないって、どういうこと?」


 吉野は怪訝そうに顔を傾けた。逆にアレンの方が、聞いていないの? と目を丸くしている。


「二週間ばかし、造園業者を入れて庭を整備するそうなんだ。だから、サラとアスカさんはマーシュコートに行って、ラザフォード卿たちはフラットに移ったって。落ち着かないからって」

「今さら? どの辺り触るんだろ?」

「池を綺麗にして、小径の周りの木を減らすって聞いてる」

「池――。ちょっと俺、ヘンリーに詳しく聞いてくる」


 バスルームに行きかけたまま、その場で立ち止まって話していた吉野はドアに向かう。


「ヨシノ、その恰好で?」


 慌てて声をかけたアレンに、吉野はチッと舌打ちした。汗でベタベタのTシャツにジーンズで、パーティー会場に顔をだす訳にはいかない。階上のこの部屋までも使用人通路を使ってきたというのに――。


「そうだな、先に着替えるよ。ほら、お前もさっさと着替えとけよ」

 どこか苛立たしげに言い放ち、吉野は今度こそバスルームに消えた。




 吉野には、フィリップの開くパーティーにちょっと顔をだすだけでいい、と言われたのだ。同じエリオットの学友が参加してやれば、あいつの親や親戚が安心するから、と。


 それなのに、なんだこれは? 

 まるで、僕が主賓ででもあるかのように扱われている!


 アレンは、入れ代わり立ち代わり紹介されるフィリップの親戚、友人たちに辟易していた。けれどこれが兄の言う『接吻』の契約の代償なのだ、と内心の腹立たしさを我慢して、愛想笑いを顔に貼りつかせている。


 それなのに肝心の吉野がいない。まだ部屋から降りてこない。我慢がすぎて息苦しい。ときおりくらり、くらりと眩暈がおそってきているのに。



「失礼、弟は少し旅の疲れがでているみたいなので」


 背後から、聞き慣れた声とともに温かな手が肩に添えられる。アレンが緊張気味に振り向くと、そこには優しい兄の笑顔があった。

 ヘンリーは心配そうに整った顔を曇らせ、アレンの耳許に口を寄せると、やっと聞き取れるだけの声で囁いた。


「情けない顔をしているんじゃないよ」



 宗主であるロレンツォと並び立つ、堂々として威圧感があり、なおかつ優美で品のあるヘンリーを、フィリップはすっかり緊張した様子であたふたともてなしている。いつものフィリップの、こまっしゃくれた、生意気そうな雰囲気は鳴りを潜めている。素直に崇敬の視線を兄に向けている彼に、アレンは胸のすく想いだった。

 その兄に咎められ、穴があったら隠れたいと思うほどに恥じ入っていたにも拘わらず、ほとんど同時にこんなことに心を浮き立たせているなんて――。

 そんな自分の感情に戸惑いながら、アレンはますます委縮してぎこちなくその場に佇んでいた。


 招待客の挨拶を受けていたヘンリーは、わずかな会話の切れ間に、傍らの弟にさり気なく視線でテラスに続くフランス窓を示す。ほっと小さく息をつき、アレンは静かにその場を離れた。





「また会ったね!」


 そんな言葉と同時に、黒髪の青年がテラスの欄干に腰かけた吉野の首に抱きついていた。

 アレンは思わず息を呑んで身をすくませ、開かれたフランス窓から離れて、煌びやかな灯りの届かない暗がりに隠れるように身を潜ませた。


「また一緒に旅行しようよ」

「あんたと?」

 その青年は吉野の横に腰かけ、親しげにその肩を抱いている。


 馴れ馴れしい! 


 どうしてラテン系の男ってのは、どいつもこいつもベタベタと触ってくるんだ!


 さっきまでの不快な思いがアレンの背筋を駆けのぼっていた。握手一つからしてねちっこく気持ちが悪い。吐き気がしそうだったのだ。


「ヨシノ!」

 アレンは堪らず、考えるよりも先に叫ぶように名を呼んでいた。横の男は吉野の頭をがしっと掴み、頬にキスして「じゃぁ、またな!」と立ちあがり、アレンと入れ代わりに大広間へ続く窓に向かう。


「誰?」

 暗がりから出てきたアレンに、吉野は平然とした顔で応えた。

「知らない奴。なぁ、ヘンリ、」


 嘘つき!


 言葉より先に、手がでていた。


 ボチャーン! 盛大な水音に飛沫があがる。


「お前、なにすんだよ!」


 テラス下のプールで、突き落とされた吉野が立ち泳ぎながらびしょ濡れの髪をかきあげている。


「嘘つきヨシノ! 秘密主義! 隠しごとばっかりで、そんなに僕のことが信用できないの?」


 溢れでる涙にのせて、今までアレンの胸中に溜まりに溜まっていた想いも、一気に噴きだしていた。






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