カレッジ・ホール
「お帰り、エド」
楡の木の生い茂る池のはたで幹に背を持たせて座っていたヘンリーは、振り返りもせずに声をかけた。
「なんだ、驚かそうと思ったのに」
エドワード・グレイは残念そうに両手を広げ、ヘンリーの横に腰をおろす。
「きみの気配はうるさすぎるんだよ。武道家なら少しは気配を殺しなよ」
「殺気で相手を威嚇するのさ。これでいいんだ」
エドワードは、明るいブラウンの瞳を自信満々に湛えて笑っている。こげ茶色の短髪にがっしりとした体躯は、学生というよりも軍人のような厳しさが漂っている。
「きみとはやはり意見が合わないな。僕は、危険を察知したら一目散に逃げろ、と教わったよ」
ヘンリーは、煙草をくゆらせながらのんびりと言った。
「一瞬で俺を地面にキスさせておいて、奥義は逃げるなのか?」
「たまたまだよ、あれは。僕がきみにかなうはずがないだろ」
ヘンリーはぼんやりと柔らかな陽光を反射する池を眺めている。
穏やかな風がさわさわと水面を揺すり、光もそれにあわせるかのように小さく踊っている。
プレップ・スクールの五年間、ヘンリーとエドワードは同じ寮で過ごした。
空手黒帯のエドワードと、習っている期間では勝っているヘンリーの合気道とはどちらが強いか、とクラスで盛り上がったことがあった。エリオットの入学一次試験を間近に控えて、皆ぴりぴりしていた頃のことだ。合気道は他人と競うものではない、とヘンリーは手合わせを断ったがエドワードは諦めず、挑発を繰り返していた。そんなある日、とうとう彼はヘンリーを奇襲して掴みかかった。気がつくと床に転がされ利き腕を捻りあげられていた。あまりの鮮やかさに驚くばかりで、怒りが沸くことさえなかった。
だがその時には互角だった体形も、今ではヘンリーよりもずっとたくましく身長も追い越している。今なら負ける気はしないのだが。
その一度きりで、エドワードが何度頼もうと、ヘンリーはその後一切手合わせをすることはなかった。きみと本気でやりあうと腕を傷めるかもしれない、と言われると無理は言えなくなってしまった。エドワードにしても、ヘンリーのヴァイオリンが聴けなくなるのは困るのだ。
「きみ、生徒会に入るの?」
ラグビーで鍛えたがっしりした胸板を包む派手な赤いウエストコートに目をとめて、ヘンリーは眉をひそめた。
「知らなかったのか? お前だって監督生じゃないのか?」
「ああ、断った。監督生だの寮対抗だのが嫌でキングススカラーになったんだ。学業優先が許されるのは、スカラーだけだものね。特権はせいぜい利用させてもらうさ」
「断った!?」
エドワードは、驚きのあまり叫んでいた。
生徒会役員は生徒の人気投票で選ばれる、もちろんヘンリーはだんとつで票を集めている。成績優秀者上位二十名から選ばれる監督生にも、ヘンリーは選ばれている。生徒会役員は、赤いウエストコートに灰色のトラウザーズ、監督生は、灰色のウエストコートとトラウザーズを着用できる。彼らはエリオット校内ヒエラルキーの頂点だ。このどちらかの集団に所属することが卒業後の進路に大きく関わってくるため、皆、選ばれるための自己アピールに精を出しているのに!
「代わりに銀ボタンを貰ったよ」ヘンリーはついでのように呟いた。
銀ボタンは、最優秀キングススカラーに与えられる栄誉だ。監督生と同じ特権を持ち、監督生の負うべき義務を持たず、学業に専念できる。だが、基本は最終学年生しか選ばれない。学年を超えて、ヘンリーはこの学校でトップの成績だということだ。最優秀とはそういうことだ。
ヘンリーは、くわえていた煙草を揉み消すと、ごろりと横になりエドワードの膝に頭をのせた。
「膝をかしてくれる?」
「もう、のせているだろうが」
「きみのウエストコート趣味が悪いな。似合ってないよ」
「余計なお世話だ」
ぼやきながらも、エドワードは熊手のように大きな手でヘンリーの髪を梳いてやる。こうしてやるとヘンリーは楽に眠れるからだ。
アーネストの言っていた通りだ……。
まったく、どうしてこいつはこうなんだ?
切れる寸前の張りつめた弦のようじゃないか。
その繊細な弦を、がむしゃらに力任せに弾き続けている。
そして、存在そのものが芸術品のようになってしまった。
見ているこっちの身にもなってくれ。弦がいつ切れるかと気が気じゃないのだ。
一度、そう言って怒ったことがある。
一学年生の時だ。ヘンリーが壮絶ないじめを受け、誰にも言わずに一人で耐えていたことを知ったときだ。
ヘンリーは笑って、「心配いらないよ。僕には最強のG線があるんだ」と、わけのわからない事を言っていたっけ。
ヘンリーは変わった。ある時期を境に急速に変わってしまった。8つの時から知っていたヘンリーは消え、それからわけのわからないヘンリーに翻弄され続けている。
エドワードはヘンリーが眠りに落ちたのを確かめて、そっと手を止めた。
そのまま静かに身体を木の幹にもたせ空を見上げる。羊の群れの様な雲が流れていく。新学期が始まったばかりというのに、空はもう秋の気配に染まっていた。
トラウザーズ:燕尾服の上着と共生地仕立てのパンツ




