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  夏の木陰3

「すごい!」

 図書室に入るなり、サラは歓声を上げた。

 深紅の絨毯が敷かれ、セージグリーンの壁いっぱいに置かれたマホガニーの書架に三方向を囲まれた図書室は、大きな窓から十分な採光があるにも関わらず、重苦しく陰気くさい。ヘンリーはここが余り好きではなく、めったに来ることもなかった。図書室といっても、ほとんどが年代物の飾ってあるだけの本ばかりだ。来る必要もなかった。


 サラはしばらく嬉しそうに辺りをぐるりと見まわしていたが、眉をしかめて、ヘンリーに向き直った。

「パソコンは?」

「ここだよ」

 窓辺に置かれたオーク材でできた重厚な開閉式の書き物机に歩み寄ると、彫刻の施された天板を開けた。天板の内側に、パソコンが隠されていた。

 サラは駆け寄ると、瞳を輝かせてヘンリーに聞いた。

「使ってもいい?」

「もちろん」

 サラは慣れた手つきでパソコンの電源を入れ、没頭し始める。

 ヘンリーはしばらくの間、部屋の中央に置かれた応接セットのソファーに腰かけ、そんなサラを眺めていた。

「サラ、僕は朝食の続きを食べてくるよ」

 サラの返事はない。ものすごいスピードでキーボードが叩かれているカタカタとした音だけが、やけに大きく耳について聞こえた。



 サラの部屋へ戻ってみると、食べかけの朝食は既に片付けられている。

 ヘンリーは執事のマーカスを呼んだ。

「悪いけれど、もう一度朝食を作ってもらえる? テラスで食べるよ」



 南向きのガーデンルームを見下ろすテラステーブルで、ヘンリーは甘いミルクティーをゆっくりと飲みながら、今日、何度目かのため息をついた。

「マーカス、僕は、映画や小説に出てくるような人間に、本当に会えるなんて思ってもみなかったよ」

 ヘンリーは、少し離れて立っている執事に声をかけた。

「サラお嬢さんですか?」

「学年トップのエドがただのバカにみえる。サラみたいなのを、天才っていうんだろうね」

 ヘンリーは、嬉しそうに笑いながら続けた。


「昨日サラに、算数の問題を教えて貰ったんだ。すごく教えるのが上手くて驚いたよ。ブラウン先生よりずっと判り易かった。でも、サラがいつもやっているのは高等数学だろ。僕の課題なんか簡単すぎて、バカにされているんじゃないかと思って、きいてみたんだ。


 僕のこと、バカにみえる? って。


 数学の問題の答えはひとつなのに、間違った答えは沢山あって、何故こんな間違え方をするのか? 間違えを導き出す要素が、問題の中にもともと含まれているのか、考えていると楽しい、って言われた。それから、あなたはバカなんじゃなくて、間違った答えと間違ったパターンをたくさん覚えすぎているだけだから、正しい答えと正しいパターンを覚え直して、ほかは忘れればいいだけよ、って。義妹いもうとにバカって言われなくて、本当、良かったよ」


 マーカスは何と答えていいか迷い、微笑んだ。


「お優しい方なんですね。わかりにくいですが」

「そうなんだよ! わかりにくいけど、優しいんだ! 算数を教えるのがすごく上手いのも、従兄弟の宿題を手伝っていたからだって言っていた」


 ヘンリーは、青紫の瞳を輝かせて話し続ける。


「それに、僕、大分わかってきたよ。サラと会話するには、ちょっとしたコツがいるんだ。発音が綺麗だから、わからなかったけれど、サラはまだそんなに英語が得意じゃないんだよ。曖昧な表現を使うと通じないけれど、ストレートな聞き方をしたらちゃんと答えてくれるもの」

「そうかもしれませんね。サラお嬢さんを迎えに行ったスミスさんがおっしゃっていました。お嬢さんは飛行機の中で、BBCニュースとイギリス映画を見て、ご自分の発音を矯正されていたそうですよ」

「飛行機の中で! そんなに簡単に発音を直せるものなの?」


 ヘンリーは、目を丸くして叫んだ。


「あのお嬢さんなら、不思議ではないでしょう?」

「僕のフランス語も、フランス映画を見たらマシになるのかな?」

「どうでしょう?試してみられては?」


 ヘンリーは、満足げに微笑んで頷いた。


「コツを聞いてみるよ。サラがこんなに面白い子で良かった。アメリカの妹や、チャールズの妹みたいなのじゃなくてホントに良かった。僕はツイてるよ。僕は、サラが来たら、一緒にバラ園を散歩したり、女の子が好きな人形遊びに付き合ってあげたり、そんな退屈だけど穏やかな毎日になるんだろうな、って想像していたんだ。まさか、算数を教えてもらったり、一緒にチェスをしたりなんて考えもしなかった」

「お嬢さん、チェスをされるのですか?」


 マーカスは、少し驚いたように聞き返す。


「僕が教えたんだ。自信があったからね。算数で恥をかいたから、名誉挽回しようと思って。サラは、チェスが気に入ったみたいだよ。それなのに、僕は、一度も勝てなかった。全然、勝負にならないから、二度目からは、サラには、クイーン抜きでしてもらった」

「クイーン抜きですか……」


 クイーン抜きのチェスなんて聞いたことがない。マーカスはいぶかし気に繰り返した。


「駒落ち戦っていうんだ。実力差がありすぎる場合、最初から強者の持ち駒を減らすんだ。まずクイーン、次はルーク、その次はナイトってね。最後はキングとポーンだけで戦うらしいよ」


 ヘンリーは、チェス好きの友達に教えてもらった、一般では余り知られていない練習法を説明した。


「でも、クイーン抜きくらいじゃ惨敗。昨日は、ハンデを上げてクイーンとルーク拭きに。やっぱり負けたけどね。負けても楽しいのは初めてだよ。サラにチェスを教えるはずが、僕が教わっている。こんなにわくわくさせてくれる相手は、今までいなかったよ。それに……」


 ヘンリーは、遠くを見つめるように目を細めて笑った。


「ちょっとしたコツがいるんだって判ってきたんだ。サラとつき合っていくには……そこさえ外さなければきっともっと面白くなる」







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