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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
399/805

  一族4

 フロントの横に連なる中庭に面したフランス窓から、薄い茶とオフホワイトのハーリケン・チェックの床に朝日が長々と差しこんでいる。天井から吊るされる蝋燭を模したシャンデリアよりも、よほど明るいその陽射しに目を眇め、アレンは深紅のルイ王朝様式の長ソファーから揃いの肘掛椅子へと席を移した。

 落ち着いたクラシカルな空気の流れる静かなホテルのロビーに、コツコツと靴音が響く。


「先輩、お久しぶりです。お元気でしたか?」


 どうしても、この子だけは好きになれない……。


 一瞬走った不快な想いに目を瞑り、アレンは息をついて振り返る。


「久しぶり」


 この二日間のパリ観光警備は、すべてこのフィリップが手配してくれたのだと、ボディーガードのサイモンから聞かされた。美術館の一室を埋めつくすほどの私服警備員に囲まれて、古今の名作を鑑賞していたのだそうだ。道理で自分たちの周りだけはいつもぽっかりと空間が空いていて、他人に邪魔されずにゆっくりと見て廻ることができたはずだ。後になってから言われたことで腹の立つ気もしないではなかったが、ここはやはり……。


「パリ滞在中は、いろいろお世話になったね。ありがとう」と、アレンは立ちあがり、真っすぐにフィリップを見つめてお礼を言った。


 むかいの椅子に腰かけたままの吉野が、クスリと笑ったような気がした。アレンが横目でチラリと睨むと、彼は変わらず、長ソファーの背もたれのダークブラウンの木枠に肘をかけ、頭を預けて目を瞑っていた。たとえ五分でも空いた時間があるなら眠りたい。そんな様子だ。


「この人、いつでもどこででも寝ていますね」

 そんな吉野にフィリップは呆れたようにため息をつき、近づいて彼の肩を揺さ振る。

「起きて。行きますよ」


 ここから飛行機で、ニースにあるフィリップの別荘に移動する。たった二日間では全然もの足りないくらい、パリの街は素晴らしかったのに。といっても両日とも美術館巡りに費やし、いわゆる観光名所には行かずじまいだったのだ――。

 アレンは名残惜しさからか、感慨深い物思いに耽っていた。ふと気がつくと吉野がいない。慌ててくるりと身体を捻って辺りを探す。


 少し離れたフロントで、彼は初老のコンシェルジュと談笑していた。


「ヨシノ!」

 フィリップに呼ばれ戻ってきた吉野を、アレンは不思議そうに見あげる。

「いろいろ世話になったんだよ」

 相変わらず澄まし顔で微笑むだけでよけいなことは言わない吉野を、アレンは情けない想いで見つめていた。



 アレンがパリ名所巡りをできなかったことを知っていたのか、フィリップの用意してくれた車は、ノートルダム大聖堂から凱旋門、エッフェル塔を廻ってから空港へと向かってくれた。

 重厚感があり美しいけれど、どこか厳しさの漂うロンドンの街並みと比べると、パリの街並みは白く華やいだ建物で統一されていて、明るく洒落ている。さすがに芸術の都と呼ばれるだけあって、羽目を外してしまいそうな解放感に溢れている。同じ欧州でも、街並みからしてこんなに空気が違うなんて――。


 あれ? 英国って欧州だっけ? 


 車窓から流れる景色をかじりついて眺めながら、首を捻り、百面相をしているアレンの傍らで、吉野はやっぱり眠っている。そしてフィリップは、窓を向いたままのアレンを飽きることなく見つめている。



「着きました」

 シャルル・ド・ゴール空港の駐車場で、声をかけたくらいでは起きない吉野をフィリップが揺さぶっている。起きない。呆れ返ってみるみる膨れっ面になるフィリップを見てアレンはクスッと笑い、「こうするんだよ」

と吉野の耳許に口を寄せると、甘ったるい声で囁いた。


「起、き、て。マイ・ハニー」


 クスクス笑いながらさっと身を避けたアレンのいた辺りを、吉野の平手が空を切る。


「最悪」

 眉根を寄せて深く嘆息する吉野の肩を軽く小突き、「飛行機の中で寝直せるよ」とアレンはしてやったりの満面の笑みだ。


「僕も眠ろうかな。起こしてくれます?」

 羨ましそうに呟いて、上目遣いに自分を見あげたフィリップの猫のような濃紺の瞳に、アレンは珍しく微笑みを向けて頷いた。

「いいよ。デヴィッド卿にも、すぐに目が覚める方法を聞いたから」

「げ……」

 吉野がまた顔をしかめる。

「あれ、地味に苦しいんだぞ」


 えっ? と怪訝そうに見あげたフィリップに、吉野は自分の鼻をつまんで見せた。



 車から降りて大きく伸びをしながら、吉野は大きく息を吸い込み、コキコキと首を鳴らす。前後のボディーガード達と目配せしあい、のんびりと三人並んでターミナル内へ向かう。


「ヘンリーは? 夜まで来ないの?」

「パーティーが始まってからですね」

「え? 兄も来るの?」


 寝耳に水の話に、アレンは大きく目を見開いて二人の顔を代わる代わる見つめる。


 吉野は、大事なことは何も話してくれない。兄もだ。アレンはいつも蚊帳の外。すべてが終わってから知らされ、ただ流されるまま、翻弄されるがまま――。


 信用されていないから。


 そう思うと悲しくて、情けなくて、泣きたくなっていた。こんな人前でみっともない顔をしないようにと、アレンは奥歯を噛みしめ、背筋を伸ばし、睨みつけるように真っすぐに前を見つめる。


 吉野が言っていたから。


 ――世界中が、お前のこと、TSの天使って呼んでいるんだ。お前の顔はTSの顔なんだぞ。


 僕は、僕にできることをする。何も知らない、何も判らない僕にできることなんて、他にないのだから。

 

 そんな圧し潰されそうな想いに、アレンは必死に抗っていた。





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