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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
392/805

  想い5

 青いガーデンパラソルの下、モザイクタイルのテーブルが等間隔にいくつも並ぶ。テラス席はすべて埋まっているとはいえ、席ごとに広く空間を取ってあるため狭苦しさは感じられない。

 飛鳥はぼんやりと、白いガーデンフェンスで仕切られた大通りに時折目を配りながら、香ばしく縞模様の焼き色のついたパニーニにかぶりつく。


「旨いか?」

 飛鳥の向かいに、遅れてきたロレンツォが目を細めて笑いながら腰をおろした。

 遅くなりそうだから先に食っとけ、と言っていたわりに早く来た。これならもう少しくらい待っていたのに、と飛鳥は少し後悔する。

 だがすぐにロレンツォは顔をしかめて、「もっとしっかり食べろ」と一喝すると、ボーイを呼び、スープ、サラダに始まって、ステーキだの、サーモンのグリルだの、矢継ぎ早に注文し始めている。


 飛鳥は大慌てで口の中のものを呑み込んだ。

「そんなに食べられないよ!」

「これくらい食えるって! だいたいあり得ないだろ、パニーニひとつとカプチーノで昼食は終わりだなんて! それに、お前が食わなくたって俺が食う」

 呆れ声で言うロレンツォに、飛鳥も苦笑するしかない。

「夏場はこんなものだよ。これでも食べている方なんだよ」

「冗談だろ!」

 大袈裟に、わざと怒ったようにロレンツォは顎をつきだした。

「ちゃんと食わなきゃ、またぶっ倒れるぞ!」


 今度はウイスタン時代の飛鳥の不摂生を持ちだして、長々と説教を始める。ヘンリーにしてもロレンツォにしても、どうしてこう、食べろ、食べろと煩いのだろう――。飛鳥は曖昧な笑みを浮かべて、表通りに視線を逸らした。その前をちょうど、ロンドン名物の真っ赤な二階建てバスが通りすぎて行った。


「ほら見て、ロニー。あのバスを見ると、ロンドンにいるんだって実感するよねぇ」

「お前、何言っているんだ、今さら」

 ロレンツォは声を立てて笑った。取りあえず小言が止まったのでほっとして、飛鳥はにっこりと微笑んだ。

「僕はいまだにロンドン観光ってしたことないんだよ。吉野は休みの度にあちこち行ってたんだけどね。あ、でも、僕だってこの辺りの美味しいお店にはけっこう詳しいよ。吉野が教えてくれたから」

 ヘンリーのアパートメントからほど近いこのホテルのカフェテラスも、吉野に教えてもらったのだ。ちなみに、ここのパニーニは吉野のお薦めだ。



 テーブルいっぱいに並べられた料理に結局つき合わされ、飛鳥もこれはお前の分、と取り分けられたサラダとサーモンを、ちまちまとつつく。食事をしながら、ロンドンに出てきた要件を話し始める。


「それでね、サラの出してくれた統計と、アレンの話とを照らし合わせてみてもね、やっぱりあれは3D酔いっていうよりも、空間識失調の可能性が高いみたいなんだ」

 飛鳥は食べながら、横の椅子に置いてあったファイルを取りだしている。

「おい、資料は後で見る。食い終わってから」

「あ、ごめん」

「で?」

「でも、それとは別の症状でね、浮遊感と多幸感も多くいわれているんだ」

「多幸感?」

「ヘンリーがね、それが軍が開発していた幻覚剤を投与した時の症状に似ているって。TS空間での幻覚の報告は、まだないんだけどね」

「TSの仮想空間で、脳内に麻薬様物質が分泌されるってことか?」


 料理を口に運ぶロレンツォの手が止まる。その真剣な眼差しに、飛鳥は戸惑いながらも頷いた。


「ニューヨーク支店の内装ではそんな報告はなかったんだ。僕のプログラムした宇宙と、迷宮だけ。それも宇宙を支店の窓から見た人は何もなくて、TSガラスの上に立って宇宙の内側を覗き込んだ人のコメントだけの特徴なんだ。ロンドンの本店も、ニューヨーク支店ほどではないけど、TS映像を内装に取り入れているんだ。でもこんな報告はない。僕の仕事じゃないからだと思う」


 黙々と食べることを再開してはいるが、考えこんでいるのか、ロレンツォは厳しい表情のまま口を動かしている。


「それで、きみの懇意の医薬関係の研究所が、麻薬系物質や脳内麻薬様物質の研究では一番だって聞いて――」

 ロレンツォは、食べながら頷いた。

「そこの研究所を紹介すればいいんだな?」

 飛鳥が頷くと、お安い御用さ、とばかりに、ロレンツォはニッと笑ってウインクした。




「ところで、お前の弟から連絡はあるのか?」

 仕事の話はこれで終わり、と話題を変えたロレンツォに、飛鳥もほっと嬉しそうな笑みを見せた。

「うん。ノルウェーとドイツから絵葉書がきたよ。それに、ウィルが時々写メを送ってくれるんだよ。思ったより危ない真似もしていないみたいだし、安心したよ。あいつ、今はどこの国だろう?」

「――フランス。今はフランスにいる。パリに戻っている。そこでフィリップに会っているはずだ」


 ロレンツォらしくない含みのある嗤いに、飛鳥の顔色がすっと変わる。


「あいつ、何かやらかした?」

「なかなかのやんちゃ坊主らしいな」

 揶揄うような瞳に、飛鳥の顔色がさらに青褪めている。

「カジノ?」

「それは聞いていない。大したことじゃないさ。ちょっと護衛を巻いて街中を走り廻っているくらいで」

 豪快に笑うロレンツォに、飛鳥も若干安心したのか小さく吐息を漏らした。

「可哀想なウィル――。日本にいた頃から吉野の御守りだったもんなぁ」




「ほら、俺を負かしてみせろよ!」

 その頃吉野は、パリ、ポンピドゥー・センター前の広場で人垣に囲まれていた。

 地べたに胡坐を掻いて座り、勢いよくカフェオレボウルにサイコロを三つ投げ入れている。チンチロリン、とカフェオレボウルの中で廻るサイコロに殺気だった緊張が走る。

「シゴロ!」

 一瞬の後には、うめき声、叫び声、悔しそうな歯ぎしりの音まで聞こえる。

 車座になった男たちの前で、札びらが舞う。



 異様な熱気に包まれたその集団を、輪から少し離れた場所から、アリーは醒めきった目つきで眺めている。


「あれ、止めなくていいのか?」

「ルベリーニの配下も混ざっていますからね。危なくなったら暴れてくれますよ、きっと」

 ウィリアムの呆れ切った口調に、アリーは頭を振る。

「とんでもないガキだな」

「まぁ、警察が来たら逃げましょう。路上での賭博行為は違法ですから」


 さっさと終わらせるためにも、ここは「警察だ!」と叫ぶべきかと悩みながら、ウィリアムは苦笑して言った。


「一度、ぶち込んだ方がいいんじゃないのか、って本気で思うよ」


 疲れた顔で口をへの字に曲げるアリーを宥めるように、ウィリアムは上品な笑顔を向けて肩をすくめる。


「それも面白いですけれどね。そうすると警察が困ると思うのですよ。あの子、ド・パルデュ家の正式な客人ですからねぇ」


 アリーは、前衛的な、むきだしのパイプと空を映すガラス面で構成されたポンピドゥー・センターのさらに上にある、雲ひとつない青空を目を細めて見あげ、自分を慰めるためのため息を、またひとつついていた。








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