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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
383/805

  空白4

 白く塗られた木製の梁がいくつも渡された三角屋根のガラス天井と、その下に並ぶ正方形の何枚ものガラスを白いフレームで区切り連結させた、あたかも分割された連動する絵画のように戸外の景色を見渡せる壁面。そこから広がる芝の緑。さらには林立する高木。


 アレンは、このコンサバトリ―に一歩足を踏みいれるなり不思議そうに辺りを見廻していた。


 室内には植物は何もない。白い大理石の床に一人掛けソファーが二つと、そろいのアイボリーの長いソファー。五人掛けくらいだろうか。その上には、水色の涼しげなクッションが二つ、三つ無造作に置かれている。手前に置かれたガラスのローテーブルにはティーセット。


 ガランとしたこの室内に違和感を覚えたのは、このコンサバトリーの中心にあるソファーが、ガラスの壁面に背を向けて置かれているからだと、そこに腰を下ろしてから、アレンははたと気がついた。広々とした空間に寒々とした寂寥感を刺激され、無意識に傍にあったクッションを胸に抱えこんでいた。


 カシャ、カシャ!


 シャッター音に顔をあげる彼の面に、ほっとした笑みが広がる。


「お待たせぇ」

 デヴィッドが、カメラをおろし笑いかける。


 最初にTSのモデルを頼まれた時は、アレンにとって苦痛だった撮影も、今ではカメラから顔を離した瞬間の彼の暖かい笑顔が嬉しくて、シャッター音を聞くことが安心感に繋がるほどに慣れていた。こんな、なんの取り柄もない自分でも彼らの役に立てているのだ、とわずかな自信さえ得られるようになった。クッションを傍らに置き、アレンは背筋を伸ばした。スタンドカラーの白いリネンシャツにベージュのコットンパンツをさっくりと着こなした彼の姿は夏らしく爽やかで、先ほどのまでの漠然とした不安はもう微塵も感じられなかった。


「アスカちゃん、すぐに来るからねぇ。もうちょっと待ってね」

 デヴィッドは慣れた手つきでお茶を淹れる。

「昨夜はよく眠れたぁ?」

 アレンが頷くと、「きみが寝ちゃった後、ヨシノからヘンリーに電話があってね、もう、文句タラタラ。横で聞いていて爆笑ものだったよぅ。あの様子じゃ、旅行はさっさと切りあげて帰ってくるかもねぇ」

 デヴィッドはケタケタと笑いながら、湯気のたつティーカップをアレンに手渡した。

「――兄は戻っているのですね」

「うん。昨夜かなり遅くにね。だからまだ寝てるよぉ」





「ごめんね、遅れちゃって」

 明るい声で母屋から続くドアを開けた飛鳥は、サラを伴っている。アレンは反射的にきゅっと唇を引き結ぶ。

「おはようございます」

 だが、すぐに和らかな笑顔で挨拶した。

「おはよう」

 飛鳥は応え、サラは首をこくんと頷いた。

「よく眠れた?」


 アレンにとって、これで四度目の質問だ。朝、出かける直前にお会いしたアーネスト卿にも、朝食の席でマーカスにも言われたのだ。


「顔色があまり良くないよ。ちゃんと食べた?」


 飛鳥は心配そうに彼の横に腰かけると、アレンの髪をくしゃっと掻きあげた。不思議そうに見あげたセレストブルーの瞳に、飛鳥のふんわりとした笑顔が映る。


「体調が良くないようならやめておこうね。いつだっていいんだし」

 アレンは慌てて首を横に振った。

「平気です。いつもこんな感じなので。低血圧で朝に弱いだけですから」

「そう? 僕と同じだ。じゃ、それを飲んだら始めようか」

 飛鳥は、無理はしないで、と言いたげに目を細めている。




 サラはローテーブルの上にノートパソコンを置き、ソファーには座らず床に直に座りこんで、もうすでに何事か始めている。大理石の白に、彼女の深紅のパンジャビ・スーツがぼんやりとした光彩を映している。

 アレンはティーカップを手にしたまま、じっと興味深げにその様子を見つめていた。すっと視線をあげた彼女のライムグリーンの瞳と目が合って、びくりと彼の手が震えた。


「気分が悪くなるようなら、すぐに言って」

 タイミング良くかけられた飛鳥の言葉に、アレンは心中の動揺を悟られないように、と急いで頷く。

「アスカさん、立っていた方がいいですか?」


 アレンは立ちあがり、ソファーから離れた広い空間に数歩進んだ。


「うん。そうだね」

 飛鳥もアレンの傍に並んで佇む。


「サラ、始めて」



 天井のガラスが紺に染まっていく。空から闇が流れ落ちてくるように。瞬時に暗闇に閉ざされて不安に駆られたアレンは、それまであった青空を探して天井を見あげる。


 頭上には、満点の星。


 驚いて見とれていると、側面の白いフレームの中の緑も宇宙空間に変わっていた。どこまでも果てしなく広がっている。


 アレンは深く息をついた。慎重に足下に目をやった。足裏から背中へ緊張が走る。無意識的に身体全体に力を込めて、床を踏みしめていた。


 底のない空間にチラチラと星の輝き――。


 頭がくらくらする。思わず眉間に力が入る。我慢できずに目を瞑りしゃがみ込んでいだ。立っている状態が怖いのだ。ゆらゆらする。地面がおぼつかない。感触はあるのに、存在しないみたいに――。



「大丈夫? そのまま目を瞑っていて」

 飛鳥はアレンの手を握り、彼を抱えこんで立たせて誘導し、長ソファーに座らせた。


「地面、揺れる?」

 ぎゅっと顔をしかめたまま、アレンは頷いた。息遣いが荒い。

「デイヴ」

「僕は平気」


 デヴィッドはアレンに心配そうな視線を向け、一人掛けソファーに足を組んで座ったまま、辺りをくるくると見廻してみせる。


「下見ても平気」


 宇宙空間にぽっかりと浮かぶソファーセットとガラステーブルを苦笑して眺め、ティーカップにお茶を継ぎ足す。


「きみたちは?」


 飛鳥は首を横に振る。向けられたデヴィッドの視線にサラも首を振った。

「オツなお茶会ができると思うけれどなぁ」

 残念そうに呟く彼に、アレンが恐るおそる目を開けて視線を向けた。

「僕にも、いただけますか?」

「もちろん」


 デヴィッドは、アレンのカップにお茶を注ぎ、ミルクを注ぎ、砂糖を入れ、小さな銀のスプーンでかき混ぜてから、ローテーブルに置いた。アレンの手にソーサーごと持ち上げられたティーカップが、カチャカチャと震えて音を立てる。


「個人差が大きいな」

 飛鳥はアレンの震える肩をしっかりと抱いたまま、サラの方を向いた。サラは黙って頷き、小首を傾げる。

「サラ、映像を止めて。彼、真っ青だ」


 ぼぉっと発光しているように輝いている、ガラスのローテーブルに照らされたアレンのあまりにも蒼白な顔色に気づき、飛鳥は思わず声を荒げていた。




 天井から陽の光が、塗りたくった絵の具を溶かすように差しこむ。視界に光が戻っていく。


「ごめんなさい」

 アレンは血の気のない顔で飛鳥をふり返り、申し訳なさそうに謝った。

「きみが謝ることじゃないよ。こっちこそごめんね。つらい思いをさせて。吉野から聞いてはいたけれど、ここまでひどい状態になるとは思ってなかったんだ」

 飛鳥はアレンの背中を擦ってやりながらため息を漏らしていた。


「きみだけじゃないんだよ。メイボールでの映像酔い」

「どれくらいいたの?」

 デビッドの問いに、飛鳥はもどかしげに顔をしかめている。

「3パーセントくらいかな」

「大したことないじゃん」

「十分多いよ!」

「じゃ、どうするの? ニューヨークの宇宙のリクエスト、ひっきりなしなんでしょ?」

「これが解決しないことには無理だよ」

「ヘンリーはなんて?」

「安全第一でって。アレン、ごめんね。歩くのもつらいんだろ? カレッジでもあいつ、吉野がすごく心配していたもの」


 アレンは「すみません」、とまた申し訳なさそうに頷いたが、ちょっと自分でも不思議そうに小首を傾げながらつけ加えた。


「大丈夫です。最初はクラクラしてつらいんですけど、すぐにすっと楽になるんです。ニューヨークでも、メイボールでもそうでした」

「え!?」


 同時に声をあげた飛鳥とデヴィッドは、アレンを凝視し、ついで顔を見合わせ、怪訝そうに眉根を寄せた。






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