空白3
一年目の夏は、ホテルで過ごした。
吉野はケンブリッジにいたけれど、大学教授の指導下で特別な課題に取り組んでいて、ほとんど会えなかった。でも一度だけ、一緒にコンサートに行ってくれた。一度は断られたのに、時間ができたからと来てくれて、とても嬉しかった。コンサートの前に、ジーンズだった吉野のスーツを皆で見立てて、レストランでシーフードを食べた。
二年目は、吉野はサウードの国に行き、僕はクリスの家に招待されてひと夏を過ごした。
三年目の今年こそ、一緒にこの長い夏季休暇をすごせると思っていたのに――。
アレンは、目の前のローテーブルに置かれているティーカップを機械的に口に運んでいる。心、ここに在らず、といった風情で。
深いため息をついたアレンに、飛鳥は心配そうな視線を向けていた。
何度か休暇をともにすごしたことはあるとはいえ、いまだにギクシャクしたヘンリーとの兄弟関係や、こんなふうに急に、そう親しいとも言えない他人の中に放りだされた彼の心情を慮ると、可哀想でならない。なんとか彼の気持ちを引きたてたいと思ってはいるが、いかんせん、彼を落ちこませている原因が自分の弟で、あの子の気まぐれや我儘に振り回されるのには慣れっこになっている自分をかんがみると、気にするなとか、諦めろとか、とても慰めにはならない言葉しか出てこないのだ。飛鳥は、話しかけることすらできなくなっている。
だから、ただ黙って静かにお茶を飲んでいた。
「アスカさん」
その静寂を破ったのはアレンの方だった。
「アスカさんはこの夏を、どうすごされるのですか?」
「ただいま~! 遅くなってごめんねぇ!」
居間を覗いても誰もいない。デヴィッドが小首を傾げていると、かすかに笑い声が聴こえる。声のするキッチンへと踵を返す。
キッチンには甘い匂いが漂っている。そして、カウンターで向かいあう飛鳥とアレンが涙を滲ませて笑いあっていた。
「あ、お帰り!」
入り口のデヴィッドに気がついて、飛鳥が立ちあがる。
「いい匂いだねぇ~。なに作ったのぉ?」
「厚焼き玉子だよ」
飛鳥はまた、ぷっと吹きだし、アレンと顔を見合わせる。
「いいなぁ! 僕も食べたい!」
飛鳥は笑いを堪えながら手元の皿を指さした。近寄って覗きこんだデヴィッドは、「――香ばしそうだね」と、真っ黒な表面の玉子焼きをなんともいえない表情で見おろす。
「でも、ちゃんと玉子焼きの形してるねぇ。頑張ったねぇ、アスカちゃん。それに、中はちゃんと黄色いし。――黒い線、入っているけど」
なんとか良い面を見つけようと、真剣にその真っ黒に焦げた物体を凝視しているデヴィッドに、飛鳥は恐縮して肩をすくめた。
「そう思って、中身だけ食べてみたんだ」
「あ、これ、食べられるんだぁ?」
デヴィッドは安心したように笑い、勝手知ったるカウンターの引き出しから自分のお箸を取りだすと、卵焼きの焦げた部分を器用に避けて口に運んだ。
「アスカちゃん、卵以外になにか入れた?」
「砂糖と小麦粉」
「うん。ちゃんと食べられるよ。パンケーキの味がする。バターを加えれば完璧」
もぐもぐと口を動かしながら、デヴィッドはいたって真面目な顔をして言った。
「吉野のだし巻き玉子の話をしていてね、彼に食べさせてあげたかったんだけど、さすがに僕には難易度が高いからさ、取りあえず日本式の玉子焼きを、ね」
「ああ、美味しいもんねぇ、ヨシノのだし巻き玉子! 作ってもらってから送って行けばよかった!」
そのままパクパクと食べ続けているデヴィッドに、飛鳥は苦笑いして訊ねた。
「紅茶、淹れようか?」
やはりパンケーキにはミルクティーが合う。
「それで、どんな人だった? 殿下の付けてくれた護衛って?」
飛鳥はお湯を沸かしながら、アレンの横に腰を下ろしたデヴィッドに興味津々で問いかけた。
「え?」
ポカンと訊き返したのはアレンの方だ。
「ヨシノ、一人じゃないのですか?」
「あいつを一人っきりで野に放つわけないじゃないか」
飛鳥は苦虫を潰したような顔をアレンに向ける。
「危なっかしくって。フランスや、モナコなんか有名なカジノがあるしさ。前みたいに大人と組まれて賭場荒らしされたら堪ったもんじゃないだろ」
「すみません……」
アレンは首をすくめて縮こまった。以前、吉野と組んでカジノに行ったのは自分のボディーガードなのだ。飛鳥はそこまでは知らないのか、アレンの反応に、ん? と首を傾げたけれど、特に突っ込まずに話を戻した。
「えっとねぇ、英国籍のパキスタン人でぇ、一見軍人さんには見えないんだけど凄腕らしくてぇ、七か国語ペラペラで~」
一つ一つ思いだしながら、デヴィッドはヘーゼルの瞳をくりくりと輝かせている。
「いくつくらいのひと?」
「二十七、八? もっとかなぁ?」
「大人のひとなんだね。友達感覚じゃなくて」
飛鳥はほっとしたように吐息を漏らす。
「元軍人さんだからねぇ」
「それならヘンリーに頼まなくても良かったね」
飛鳥がクスっと笑うと、デヴィッドはさも面白そうに声をたてて笑った。
「見ものだったよぉ! 彼を見たときのヨシノの顔!」
アレンだけは不思議そうな顔をして、そんな二人を代わる代わる見比べていた。
数刻前――。
ロンドン、セント・パンクラス駅のパリ行きユーロスターのプラットホームに到着した吉野は、そこで待つ見知った顔を見て、思いきり眉間に皺を寄せていた。
「なんであんたがここにいるんだ?」
「あなたの御守りですよ」
簡潔に応えただけで吉野の無礼な反応は意にも介さずに、男は彼の傍らに立つアリー・ファイサル・バッティに右手を差しだしている。
「初めまして。アーカシャ―HDから参りました、ウィリアム・マーカスです。どうぞよろしく」
承服しかねる眼差しをじろりと向けた吉野から、デヴィッドはわざと視線を逸らし、そっぽを向いて嗤いを噛み殺していた。




