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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
381/805

  空白2

 夏の間閉鎖される寮の私物を部屋に運びこみ、ひと息ついたところで、開け放された吉野の部屋のドアを軽くノックする。

 持ちかえったスーツケースは部屋の片隅に放りだされている。だが、ベッドの上にひっくり返された衣服を、吉野は次々とクローゼットではなくリュックサックにつっ込んでいる。アレンは唖然とその様子を眺め、小首を傾げた。


「ヨシノ、何をしているの?」

「旅行準備」

「え?」

「俺、この夏中、欧州をバックパッキングしてくる」

「欧州のどこ?」

「決めてない。適当に気が向いた国に行くよ。ユーレイルパスを買ったからさ、いろんな国を見てくるよ」


 沈黙に吉野は手を止め、ぽかんと立ち尽くしているアレンを見あげて、にかっと笑う。


「僕も行きたい――」

「貧乏旅行だからさ、お前には無理。宿はドミトリーだし、夜行列車で寝たりするだろうし。食い物だって、高級レストランになんか行かないぞ」

 吉野は真面目に答えると、「お前、せっかくケンブリッジにいるんだからさ、何かやることを見つけろよ」とまた荷造りに意識を戻した。


 アレンは、余分なものの何もないガランとした吉野の部屋を所在なく見廻して、小さく息をつく。

「つまらないか?」

 吉野はちょっとだけすまなそうな顔をして、アレンを見あげた。

「じゃ、ヘンリーんちに行けよ。俺がいなけりゃ問題ないだろ。そしたら飛鳥もいるし、デヴィもアーニーもいる。寂しくないだろ?」


 夏季休暇はケンブリッジに滞在することが決まったとき、アレンは兄ヘンリーの館ではなく、ケム川沿いのラザフォード家のフラットに泊まることにした。兄には、どちらでも好きなように、と言ってもらえたのだが。

 吉野が、度重なるサラのパソコンへのハッキング行為がバレて、飛鳥にきつく怒られ、当分の間、ヘンリーの館に出入り禁止を食らっているからだ。ヘンリーやサラは笑って、吉野が侵入してくる度にコズモスのセキュリティレベルが上がるのでかまわないのに、と言ったのだが、さすがに飛鳥は許さなかった。


「うん――」

 アレンは唇を尖らせて、開け放たれた出窓に憮然と腰かける。風のない窓辺では、息苦しさは変わらない。やるせない思いで表に目をやる。三階の部屋から見下ろす通りには道行く人もなく、すべてをさらけだす夏の日差しに、石畳の歩道も、アスファルトの車道も、何もかもが乾いて見えた。


「そうだね、僕も夏の間、何か打ち込めることを探すよ。二カ月間もあるんだもの」

 アレンは無理に笑顔を作り、自分に言い聞かすように呟いた。


「祖父さんのところには帰らないんだろ?」

 一瞬息を詰めるように表情を消し、アレンは吉野に視線を戻した。

「じゃあさ、フランスかドイツで落ち合うか? フィリップんちと、マリーネんちも行くからさ。お前が来るとなったらあいつらも喜ぶしさ」


 落ち込むアレンの気分を引き立たせようとした提案なのに、返ってきたのはなんとも微妙な表情。吉野から、つい苦笑いが漏れていた。


「お前、最近、俺といる時いつもそんな顔してる」

「え? どんな顔?」


 アレンは目を丸くして慌てて両の手で自分の頬を覆った。そんな情けない顔を早く隠さなければ、とでもいうふうに。


「困った顔だよ。俺さ、そんなにお前のこと困らせているのかな?」


 冗談めかして肩をすくめる吉野に、アレンは今度こそ困った顔で、曖昧な笑みを浮かべた。





 気詰まりな静寂の中、表から聞こえてきた車の停車音に、アレンはほっとしたように窓から通りを見おろす。


「アスカさんと、デヴィッド卿だ」

「ん。じゃあ、俺、行くからさ」

「もう行くの!」

「デヴィに駅まで送ってもらう。お前、どうする? こっちで暮らすんなら飛鳥かデヴィが泊まるって言ってた。どうとでも好きにしたらいいって」


 気がつくと荷造りも終わり、吉野は身軽にリュックを肩にかけている。


「えっと、向こうでお世話になります」

「うん。その方がいいよ。ヘンリーん家なら、メアリーやマーカスさんもいるしな」

 戸口に歩き出している吉野を、アレンは慌てて追いかけた。

「駅まで送るよ」

「いいよ。お前も着替えくらいまとめなきゃいけないだろ?」


 先に言ってくれれば荷解きしなかったのに……。

 まるで、わざと教えてくれなかったように思えて、アレンは胸が塞いだ。


「フランスでも、ドイツでも、どこでも行くから連絡して」

「うん。絵葉書を送るよ」

「絵葉書――。それ嬉しいな」


 今時絵葉書なんて、意外すぎてなんだか面白い。アレンがくすりと微笑むと、吉野もにかっと笑い返してくれはしたが、その足は止まることなく玄関に向かっている。そして、玄関口で飛鳥と少し立ち話しただけで、すぐにデヴィッドと連れ立って行ってしまった。「じゃあ、行ってくる」と、たった一言だけを残して――。



 走り去る車を見送りながら、苦笑とため息がアレンの口から漏れた。

「ごめんね」

 飛鳥は、なんとも言えない様子で謝った。

「あいつに振り回されてるんだろ?」

 アレンは小さく首を横に振る。

「自分が情けなくて。同い年なのに、彼は、僕とはなんて違うんだろうって。とても、恥ずかしくて……」


 哀し気に笑うアレンの柔らかな金髪を、飛鳥はくしゃっと撫でてやった。


「あいつよりきみの方がよほどしっかりしてるよ。きみもこっちに着いたばかりなんだろう? お腹すいていない? お茶にしようか? この国に来てから、お茶だけは淹れるの上手くなったんだよ。なんたって、日に五度は飲むからね!」


 にこやかに微笑む飛鳥にアレンもにっこりと頬笑み返し、つれだって、ガランとした静かな建物内に戻りキッチンに向かった。







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